覚者慈音500

           三世と四世論
           未知日記第八巻
           第二の巻
           現在の巻        其の52
  第四十一      魄の性質について                               その壱                インショウ、ミキョウ貴尊講述


 魄の性質は純潔にして濁りなく素直なる素質を有す。魄は即ち霊に属して生じたればよく霊を知りて常に霊の徳にて育ちたるなり。故に清き性質を有す。従って魂と霊を結ぶ役目を課せられたり。故に魂に和するを目的として成長するなり。故に清き性質を有するなり。然るに摩擦根の妨げありて容易に和し難く摩擦根の消滅を待ち居るなり。行法に於て貴尊が申されし零点零(ゼロ.コンマ.ゼロ)の点は即ち摩擦根なりと知らば可なり。此点を消去して始めて魂魄は接続す。されど未だ一体とは云い難し。何となれば零と零の区別ありては未だ位置を有する故なり。其が位置を取り去りて零プラス零となしてはじめて一体となるなり。所謂電流は電燈を電光となす関係なるべし。其兎に角魄は摩擦根を清除せんとして進み、魂も魄に同化せんとして進まば摩擦根は相方の圧迫に堪えかねて絞り出さるるの余儀なきに至るなり。
 魄の性質は温厚なるにより摩擦根の如く激烈なる火花を散らす如き行いをなさずしてゆるやかに光を現わすなり。摩擦根は忽ち怒り、忽ち嘆き、忽ち笑へど、魄は真実性の喜怒哀楽ならでは喜び怒り、悲しみ楽しむことをなさざるは特性なり。魄には霊の力加わりあるによって斯くも相違あるなり。世人は拝みをなす時何か一種の霊感より感じを覚ゆることはあるならん。然して其は忽ち消滅すべし。この現象は魄にあらずして摩擦根なり。是等は稲荷下げとか神懸りとか称する類にして皮膚に泡を生じ筋肉痙攣するを見ても摩擦より生ずる現象なることは何人と雖も知ることを得るならん。是等を世人は羨みて自らも斯くなり度し思う人は多し。斯る狂人ぢみたる事にて何が分るかと我等は不憫に感ずるなり。
 魄よりの現われはかかる痙攣は起らざるばかりか却って冷静沈着となるなり。故に摩擦根の神懸りなどに見らるる誤言等はあらざるなり。又自問自答を行いても摩擦根は曖昧なる返事をなせど魄は正しき返答をなすなり。初心者の自問自答に正確を欠くは魄に通じたるにあらずして摩擦根の返答なるにより稀には適中すれど大抵は不正確なるもこの故なりと知るべし。其が次第に深く進みて魄に通じて魄より返答あらば正確となりて毫もあやまるものにあらず。故に魄を引き出すには限りなき方法のあれど最も簡単にして、然も時と所のきらいなくなし得る拝みは自問自答の法は最もすぐれたるものなり。
 是は何人も容易に行い得、然も危険の伴はず安全なる方法なり。拝みは神眼を開かせ、自問自答は神耳を開らかす。故に危険を誘発する心配はあらざるなり。魄の性質は純潔なるが故に世人は是を良心と称へ居るなり。修養せざる人は常に摩擦根にたよりて魄を押し込めてはたらかしめず、無意義に遊ばせて顧ず、たまたま悪しき行為を魄よりせめらるるも須臾(しゅゆ)にして忘却して魄に和することを好まず、避けて摩擦に組みする人は多かるべし。斯る人は神より受けし人間をふり捨てて動物にて終る哀れなる人なり。


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