覚者慈音499

               三世と四世論
           未知日記第八巻
           第二の巻
           現在の巻        其の51
  第四〇     摩擦根の清除は如何になすべきか                                                                      インショウ、ミキョウ貴尊講述


 先にも語りし如く人には魄と云う優秀なるものが与へられたるに引き換え動物はそのそなへなく、すべてを摩擦によって生ずる智慧にて処理なしつつあるにすぎざれば人間性智識とは格段の相違あるなり。先に述べたる軍馬が主人の屍体を陣中に運び帰り自らも負傷に倒れたる如きは人智より測定して報恩の念と思うは無理ならぬことなり。然して此軍馬の魂を慰むる美拳も決して無意義のことならず。褒むべきことなり。されど我等の語らんとする処は他に在るなり。動物には報恩より主人を陣中に運び帰りしにあらずして其を報恩と思うは人智より測定せる判断にすぎざるなりとの道理より知らしめんとするにあるなり。何故是を知る必要ありやと云うに正しく此区別を理解するにあらざれば真の報恩を知るあたはざるによってなり。世人は幼児の母を慕う心持ちを理解することを得るならば動物が主人を陣中に運び帰りし心理状態も従って理解することを得るならん。恰も其と同様にて其行いが人間の思う報恩のことに合いたる迄なり。動物は恋を知る。即ち主人を恋せし現われなり。幼児が母に別れて悲しむは恋にして恩を感じての現われにあらざる如く軍馬の場合も亦同様なりと知るべし。是等に関しては追々語るべし。世人は報恩感謝と云へるを曲解なし居ることを我等は知るなり。故に語らんとす。されど此項目には是迄に止めをくことを諒とせよ。
 さて摩擦によって生ずる智慧は刹那的なれば永続性に欠くるところあり。もし人間が摩擦根にまかせて世を送るならば向上発達は得られじ。さればこそ向上せしめんがために神は人間に魄を与へ給いしならん。と我等は思うなり。摩擦根の力はある場合には魄にもまさるはたらきを有せど報恩感謝とか或は神を知るとか又は神に帰依するなどの念は乏しきなり。現在インドの聖者が唯一人の断食によってさすがの英国も手を焼きたるによるを見ても、神を知るものの力は百万の軍にまさる力あることを知るならん。魂魄霊の力は斯くも大なり。
 動物性摩擦根は如何にすぐれたりとも斯る力はあらざるなり。されば如何にしても摩擦根を一掃して魂魄一体となさざるべからず。その法は如何にせばよきかと云うに是は魄の力を増大するにあらざれば目的は達し難し。魄を増大するには先づ魄を知らざるべからず。魄を知るには思慮を深くするにあり。即ち深く物事を考うるは魄と魂とを一体ならしめて健全なる智慧を求めんとする法なるべし。故に禅宗は座禅して難問を課して考案工夫せしめて魂魄一如ならしめんとするを目的となし居るなり。世人は此理を明らかに知らんとせば先づ己自らが心の井戸を掘らんと思いて修行せよ。井戸浅ければ水濁りて飲むあたはず。よし水清くとも僅少ばかりにて井戸枯れなば効なし。汲めどもつきぬ水量となる迄掘るべし。
 摩擦根とは濁水なればその濁水を清水になすには魄迄掘れよと云うことなり。井戸浅くして然も水清く汲めどもつきざるある如く、人にも始めより魂魄整いたるもあれど斯る人も亦稀なるべし。兎に角行ずれば人間と生れたる以上魂魄なきものはなし。世人は日々修養と云う鍬を振いて魂の井戸を掘り下げ、魄と云う清水を湧きたたせて智慧の咽喉をうるほはしめよと勧むるなり。斯くすることに依って従来の摩擦根と云う悪水は浄化せられて是は心意の水と変じ魂には心(しん)、魄には意の水となり、ここに心意魂魄の四つを受くるに至るなり。世人は幸にも教主及び貴尊の教へを受けて初日を拝するに至りたり。初日は即ち人間性より人間性即ち魄のかげを見出したるなり。されど今後は未だ残存せる摩擦根を清除せずば清水とはならざるべし。故に今後は大切なり。今後は特に耳を傾けて水の湧き出づる音を聞け。又眼を大にして清濁の区を明らめよ。耳とは何か。即ち自問自答によって音を聞くなり。眼とは拝みによって見る眼なり。此二つの修行こそ魄を増大する方法にして是を措いては他にまさるべき道もあらざるなり。
 

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