覚者慈音498

           三世と四世論
           未知日記第八巻
           第二の巻
           現在の巻        其の50
  第四〇     摩擦根の清除は如何になすべきか                                                    その三                  インショウ、ミキョウ貴尊講述


 先に動物は報恩感謝の念なしとのことに関して明確なる説明をなさざりしを世人は不満に感じ居るならん。其は此講に語るの要あるによって留保なしをきたるなり。兎角世人は人間を余りに高く評価し動物を余りに低く見て観察をなすによって見損じをするなり。人間同士に於てすら此見損じあるなり。例へば盲人を見て彼はめくらなればとの念より不具を低く見て其がすぐれたる行をなしたりとて感心するなどは人が人を見損うも、凡てを低く評価する故なるべし。ものを低く評価するは自らを高く考うる即ち自惚れの潜在より生ずる現象なるべし。此自尊心より動物を観察する故に真の判定を下すことあたはざるなり。すべて物事を判定するには其ものと同化してそのものにならざれば判断は得難し。されば動物を知らんとせば先づ己も動物の心となりて研究せば判明すべき道理なるべし。されど是は云うべくして行い難し。是何故ぞ。其は人間と動物の隔は余りに相違ある故なりと考うるならば其も亦あやまりにして恰も盲目と正眼にすぎざるなり。正眼者は盲目を知らんと眼をとぢてたりとて盲人の心理は解することを得ざるなり。されど盲人と正眼とは魂に於て相違あるにあらざるなり。世人も知る如く年長者は動物に同化する力すくなけれど小児は比較的和する力多し。世人は是を見て小児は無心なる故なりとのみ考へて深く理由をたしかめんとはなさざるなるならん。兎角世人は自己を定規として其がすぐれたる測定器と自惚れ居るを改めて今一段すぐれたる測定器を造らんことを我等は望むなり。小児が無心無邪気なるが故に動物も是を害せず親しむと考うる年長者は既に魂の種子が双葉を出したる故に斯く考うるなり。小児の無心無邪気とは未だ分別の智慧整はずとの意味ならずや。世人は此思いより小児を観察なし居るにより小児が思いもよらぬ智慧をはたらかせたる場合驚愕して彼は神童ならんなどと称賛なし居るなり。斯くも不完全な定規物指しが常に世人を迷はしむるなり。小児は漸く魄の種子が割れて今や芽を出さんとなし居るにすぎず。その不思議と思う智慧は即ち魄より生じたるにあらずして摩擦根より出でたるものなり。斯くの如くの理由にて摩擦根にて生存なし居る動物と雖も智慧の優劣あることを知るならん。故に智慧すぐれたる動物など苦しみの程度も従って多大なり。何となれば其智慧は摩擦根によって生ずる故に強ければ強き程苦しみも亦大なる理なるべし。


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