覚者慈音497     三世と四世論   魄と魅力根(一名摩擦根。何れも仮称)  との相違について    ミキョウ貴尊講義

           三世と四世論
           未知日記第八巻
           第二の巻
           現在の巻        其の49
  第三十九     魄と魅力根(一名摩擦根。何れも仮称)           との相違について                                その三              
              インショウ、ミキョウ貴尊講述



 然らば魄とは如何なるを云うや。是を一言にて語るならば魂(こん)を熱火と見なし魄を光明なりとの語につきるなり。即ち熱火はものを焼き尽くす力あれど暗夜を照らす光明とはならざるなり。故に魂は熱にして魄は光明なりと考へて考究の度を強くして凡てを導く暗夜の燈火となさしむべし。又魂は電流にして魄は電燈の如き関係なりとも考うれば修養修業の法は自づと工夫することを得るならん。即ち魄と摩擦根の相違はこれによって察せられしと思うなり。動物魂如何にすぐれたるはたらきを有するとも凡てを導く光明を有せざるなり。故に山神鬼神或は外道に帰依すとも救いの光明は得られざるなり。我等斯く語るとも世人は云うならん。摩擦根と雖も魄を代表する以上すぐれたる智慧を有するならばその智慧によって或は通力を応用して大衆の苦患を救うことを得べき道理ならずやと。其一応尤の如く聞ゆれどそは所謂摩擦根より考へたる理屈にして魄より考へたるにあらねば刹那の信仰にすぎざるなり。摩擦根の智慧は恰も檻の中に入れられたる猛獣を不憫なりとて放ちやる智慧にすぎず。されど魄の智慧はもし是を放ちやれば多くのものに危害を加うるにより檻の中にていたわりやらんとの考へとの相違なり。故に摩擦根のみのはたらきにては真の救いとはならざるなり。魄を有する人間と有せざる動物との相違は斯くも隔ありと知らば人間は魄とは何処を尋ね求むべきか。又如何なる法を以てこの魄を見出すべきかについて迷うならん。
 世人は隣家の食物を無断にては喰はざるべし。されど獣類は喰うならん。人に魄の反射作用ありて是をなすべきかなさざるべきかと常に摩擦の心がはたらく。是魂と魄なり。動物にある二つの心がはたらき居る如く見らるることもあれども其は人間の魄の如くはたらくにあらずして摩擦根のはたらきにすぎざるなり。良心の呵責とは魄よりせめらるる苦みを云うなり。
 近代学者間に於て動物には魂(たましい)なしと説き居るを聞く。是を我等より云うならば学者の思う魂(たましい)とは魄を指すならんと思うなり。魂(こん)は動物にも有する故なればなり。されど動物には光明となるべき魄はなきにより善悪邪正を明らむる如きそなはりあらざるなり。人間は向上すべき道を明るくせんために此魄を与へられたればその魄の光明を照らして霊の威徳を見出して天界の広大なる恩恵に浴さんことを冀うべし。

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