覚者慈音472

           三世と四世論
           未知日記第八巻
           第一の巻
           過去の巻        其の26
    第二十二   人間性と空虚              
             リョウジャ、セイキョウ貴尊講述


 汝等すべてをすて終らば恰も箱の中の品物を覆へしたる如く、あとには空気の外何も残らずと考へるならば其は大なるあやまりなり。空とは空虚にあらず。たとへば美はしき花畑を作らんとして種子を蒔きて発芽したるのち手入れを怠り居て雑草生い繁りて花と草との区別明らかならざるは汝等の姿にてこの雑草こそ所謂動物性にてありしなり。故に此雑草を悉くぬきさりて美はしき人間性の花畑となすを空と云うにて、空虚とはもぬけの殻を云うなればかかるものになせよとすすむるにあらず、汝等誤解すること勿れ。彼の雲水の僧は一鍬にて雑草悉くをぬき捨てたるにより一時に美はしき花畑を現出してその美観に驚きたるにすぎざるなり。汝等日々修行と云う鍬をふるって雑草をさり修養と云う肥料をほどこして見事なる花畑を作れよと勧むるものなり。
 肉体を精神より支配すると精神が肉体より支配せらるるとの相違は非常に異なるなり。肉体は土壌なれど肉体の土のみ肥えて花に対しての養分に意を用いざれば却って花を枯死せしむべし。其は雑草の生い繁るに依ってなり。土肥えて雑草生い繁るは理なるべし。空虚とは魂のぬけさりし死体にして、斯るものとなりては何事の役にもたたざるべし。汝等空虚とならぬ間に真の人間とならざるべからず。然らば人間性とは如何なるを指すかは既に従来語り来りたれば今更論ずるの要もなからん。即ち迷いの心を捨てて迷はざる良心に帰せしめよと云うことなり。押せども突けども微動だになさざる精神を指すなり。されど偏屈頑固なる片意地のものを指したるにあらず。火にも焼れず水にも溺れざる底の人として世を渡れよと云うなり。汝等動物性の不動は偏屈片意地なるを以て闘争を生じ、怪我あやまちを惹起する怖れあれど、人間性の不動は斯るあやまちはあらざるなり。さればこそ大悟せる人はこの不動智によってすべてを感化せしむるを得るなり。汝等赤子の泣声を聞き或は笑うを見れば直ちに抱き又微笑むならん。赤子は人間性不動の徳は天より蒔かれたる種子の発芽なればなり。仏教の説く不動智とは即ち動ぜざる智慧と云うにて所謂人間性を指したるならん。正しきと信じてすすまば如何なるものにも恐れず自若として動ぜざるならん。是即ち不動心なり。動ずるは正不正の区別明らかならざる故に迷うなり。されば信は正ならざるべからず。邪を信じて不動とならば最後は亡びん。是動物性欲求の不動心なるによってなり。ゆるぎなき柱にあらざれば家は倒れん。汝等が語るを聞けば「人間も無情を感ずるに至らば既に終りなり。そは活気乏しくなりて勇気失せたる故なり」と。何と云う愚言なるか。無情を感ずるは動物性にては正しき生活は難きを悟りて人間性に至らんとなす、即ち動物性より度脱せんとの願望に他ならず。故に此心起したる人は如何なる難行苦行すとも敢て辞せざるなり。其が勇気なくしては道に入るるは難く元気旺盛ならざれば行ずるを得ざるなり。汝等の思う勇気とは粗暴を意味し元気とは剽悍(ひょうかん)を意味するにてはあらざるか。

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