覚者慈音441

テッシン講録再続篇 下      未知日記第七巻


第十一期とならば如何なる変化になるか   其一
                     その41
       
                     第四の巻
                      
             インショウ、ミキョウ貴尊講述


 十一期に達して既に天爵を受けたれば、己は下界にありとも最早天界に置かれたるも同様なれば自らの居する処の場所は、何れの区別はあらざるなり。故に其居に甘んじて後輩者の指導に尽力して一人にても多くの人を天界に送るため専念是努むるを要すべし。神はすべての動物を地上に生存せしめたる以上、是に食を与へじと云ふことなし。餓死するは食を取らざる故なり。人間は喰ひし上にも喰はんととして自ら求めて苦むなり。飼主のなき牝犬を見よ。多くの子を産みても餓死せしめず育てて餓死はせしむるはわずかなるを見ても、人喰はざるは犬にも及ばざるべし。故に生くるも死するも神に任せて己は天職にいそしみ居らば其報酬は天より下さらん。さりながら働かずして棚からぼた餅の願ひは愚なる事なり。此理は十一期拝に進みたる人なれば、正しく認識する事を得ん。其は既に貴尊によって詳しく説かれあれば省略す。
 されど、我の語らんと欲する処には重大なる意味を有するによって、重複を知りつつ語りしなり。そは何なるかと云ふに、人生に取りて最も大切とするものは衣食と云ふことなり。母体を出でたる赤子は直ちに母の乳房を口にするを知り居るを見ても察するを得ん。とにかく人は喰はんがために働くか、はた又働かんが為に喰はんとするかについて、種々論議せられあるならん。何れにせよ。衣食足りて始めて道を求めんと志すは一般人の慣習なり。さればこそ衣食足りて礼節を知るとか云ひ居るにてはあらざるか。我の語らんと欲する処はここにあるなり。衣食足らずとも、否、食せずとも道を修めんことを願ふべし。我等世に在りし頃五十日七十五日の絶食をなして、道を修めしも心の帯をひきしめて、念の力を強大になさんが為の行なりし。然れども決して餓死することなく却ってやせたる肉体は強くなり行けり。餓死するは心のゆるみより来るなり。信念強ければ百日喰はずとも死せずと云へり。但し我は七十五日の行は行ひたれど百日の行は経験あらざれば保証することはなし難し。故に七十五日は保証することを得るなり。三日五日は死するものにあらず。喰はずば死すとの観念は行ずる者に取りて、最も妨げとなる。我、第一の拝みに於て此事を語らんとなしたれど、初心者に語らば恐怖を誘発して却って挫折せしむる恐れあるを慮って今迄に語るを避けたり。されど十一期に達しなば、既に生死は問題とはならず。後輩者を導くには是非共認識(わきま)へをかざるべからず。故に此期に於て語りたるなり。即ち信念を強くせば、肉体は斯くも強く働くなり。神は徒に餓死せしむるものにあらねば、意を安ぅして業務に励むべし。
 さて十一期よりすべてに和して是を救ふ力はやや拡大せらるるにより、来るものは必ず救はる。来らざるものにも光明は照らすなり。恰も月の地上を照らすに異ならざるなり。されどかげにかくるるものは照らすを得ず。故に来らざる者には鈍しと知るべし。即ち月は太陽の光を受けて地上を照らす如く、人も霊光の光を受けて魂の力はすべてを照らすなり。


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