覚者慈音442 テッシン講録再続篇 下 最終十二期の有様は如何  インショウ.ミキョウ貴尊講義

テッシン講録再続篇 下      未知日記第七巻



最終十二期の有様は如何          其一
                     その42
       
                     第四の巻
                      
             インショウ、ミキョウ貴尊講述


 十一期の拝みが末期に至らば最早自問自答の用もなきに至る。自らは既に自らにはあらざる故なり。何となれば自問は精神によって行はれ、自答は霊によって行はれ居たれど、此期には既に精神は霊に化せられて一体となりあるにより、斯る行ひをなさずともすべては判明するにより問ふの用もなく、又答ふるの用もあらざるなり。一度他に接すれば彼の心中を看破する力ありて、彼語らずとも彼の語らんとする事柄はよく知ることを得るなり。彼にもし他人が悪意を以て我に来るも、忽ち霊は彼の霊に接し悪意を消滅せしめと命ずるにより、彼は戦慄を感じて屈服するの余儀なきに至らん。霊の徳は斯くも用い方働かせかたによっては、不可思議の働きをなす。是、彼を苦むるにあらずして悪を去らしめて彼を救はんが為なり。然して悪は退散して善は霊に来たり和す。
 さて十一期末に至らば如何と云ふに悪魔は我前には恐れて来らず。故に悪念に悩まさるる人来らばその念は退散して影をかくす。されど又我前を去らば再び彼を苦むなり。
 十二期の始めに進まば悪念を納得せしめて、其念と共に救ふ力は備はれど此期に入りたる最初は、亡霊を救ふ力は未だ備らず。故に唯一時追ひ払ふ過ぎざるなり。いやしくも霊的拝の行、通達し、菩薩の境涯に達しなば怨念妄念を化せしむるは易しと宗教者は説き居るにてはあらざるかとの質問をなす人もあらん。是に対していささか語るべし。
 そは仏教者の語る菩薩と、我の語る菩薩とは相違あるによってなり。即ち一行を修めて菩薩を得たるもあれば、又百行を修めて得たる菩薩もありて一様ならず。故に同じ菩薩に於ても段階ありと知るべし。一法を修すれば万法に通ずとの教への如く、一行よりうくる菩薩も又百行よりうくる菩薩も菩薩と云ふに変りなく、唯法を多く知らずと云ふにすぎざるなり。されば今後は多くの法を究むれば事足る。恰も一円紙幣と百円紙幣の相違にて紙幣と云ふに変りなく、一円も百度働かば同様の価値となるに等し。
 十一期の行全く終りて、十二期の行門に一歩を印せば、菩薩の境涯は終りて仏即ち仏の姿に映されて成仏の世界となる。又天国にて神の僕となると云ふも是なり。故に世人は肉体を有して今生の未だ失せざる間に此境涯に置かれんことを我等は願ふなり。今生より是を知りをかざれば、失せて後の苦行は並々ならぬ努力を要すべし。そはとにかく、我は宗教者にあらねば世人に滅後を語らんとなす者にあらず。されど人と生れし以上は誰彼の区別なく一度は体験するものなれば、我、注意迄に語りをくなり。されど行ぜずともよしと思はば行ぜずとも可なり。我は強いてすすめじ。

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