覚者慈音429





テッシン講録再続篇 下      未知日記第七巻


第九期の拝みは如何にすべきか       其一
                     その29
       
                     第四の巻
                      
             インショウ、ミキョウ貴尊講述


 例へば従来病気を克服なしたる行力すら、此期には無効化となるにより不審するならん。今是を深く究むれば次の如き理由となる。従来人を救はんと感じたるは己是を治癒せしむべき法力あるによりて、救はんとなしたるは是己の力を信ずる故なりし。然りとせば未だ自己中心より脱するを得ざるならん。故に未だ自己中心の修行なれば完全ならず。自己本位の修行となるによって欲望は絶滅なしたるにあらざるなり。いささか云ひまわし粗漏にて了解に苦むならんと思へど、修行者の智慧を喚び起さしめんと思ふにより、わざと斯くは語りをきたり。故によく考へて工夫せられたし。自己中心自己本位は自己執着なり。その執着こそ世人を苦め迷はする大なる根にてありしなり。人はその根をぬかんがために修行なし得るなり。
 今八期の終末に至りて初めて其大根がぬかれたるにより、恰も夢遊病者の如き姿となり、従来の行力も効果なきに至りたり。さればこそ我と同様に慈音は悲しみ居るなり。されど是は大晦日の其に等しく一夜明くれば元旦の光明は輝くなり。先に語りし泰岳は修行の行力は衆に秀でたるなり。秀でたる業ありても彼は其を誇るにあらず。彼は何の観念もなく行を任務なりと心得居るにすぎざるなり。問はれて知らずと答へ居れど、霊の力は問ふ者に満足を与ふるなり。病める者の枕辺に彼至りて祈祷せずとも病魔は失せて治癒す。彼に法を問へど唯知らずと答ふるのみ。強いて追窮すれば彼は云ふ。我、至りしに彼は起きたり。我、何の業も行ひしにあらずと。霊光は斯くも大なるはたらきを有す。されば世人はこの泰岳の話を参考として自らの力などをたのまず、霊光をたのむべし。霊光は世人悉くが持つ光明なればなり。人にありて我になしと云ふことはあらず。一切平等とは霊光を指したる言葉と知らば、何処迄も追究して探ねあてられよ。その法は拝みに不如。然して拝みの中にも貴尊の教へられし自問自答にて霊の声を聞かれたし。
 第八の行、全部終了して無生の境地より度脱せば、ここに初めて第九の境涯に一歩を印す。然して霊的修養修行となる。此期に達して先づ心附くことは、従来の思ひと今眼のあたり思ふことの心の相違なり。従来は我、力を授かって、世の人の為に尽さんとの思ひにて修養修行に専念なし居て「我、如何になるとも苦しからず、願はくば世人の苦を救ひ給へ」と、如何にも己自らを犠牲にしたる如く思はるれど、是を神の耳に伝はるならば、「汝一人何者ぞ、ありてもなくとも何の価値あらん。斯る願ひも自らの手柄になさんとの欲望にして、表面は美はしく見するに過ぎざるなり。斯る心を早くすてよ」と、仰せらるるやも計られざるなり。然るに霊界に一歩を印せば斯る観念は全く失せて、我と云ふ小さきものに留意せず、唯すべての為の祈りにて救ひ給へ等の依頼はなさざるなり。それは神の心任せなればなり。例へば人の苦みを見ては己の力に叶ふなれば救ひ遣りたし。もし彼とかはり得るものならば、代りても遣りたしと思ふは人情なるべし。されど神ならぬ身には如何に思ふも詮なしとて唯神よ、彼の苦痛を救ひ給へと祈りしは精神信仰の現はれなりし。然るに霊的信仰に入らば其と全く反対の感じとなる。人の苦痛を見ば徒に我心を労せず、憐れみの心にあらずして慈悲の心となるによって、彼の苦と我の慈悲とに結合するにより、彼の苦の程度に応じて慈悲は一対に送らるるによって中和せられて彼の苦は消滅するなり。精神信仰と霊的信仰には斯くも相違あるなり。


 



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