未知日記霊話集  テツシン講録 第九の拝みは如何にすべきか  インショウ.ミキョウ貴尊講義



テッシン講録再続篇 下      未知日記第七巻


第九期の拝みは如何にすべきか       
                 第四の巻
                      
             インショウ、ミキョウ貴尊講述


 第八期より九期迄は精神信仰の拝みなりしが、第九期よりは霊的信仰の拝みとなるなり。我、世にありて恰も此八期末に相当する行の終り頃、不思議なる現象現はれたり。其は他にあらず。今迄知り伝へられたる諸々の行力がハタと止まりて如何に行ふもならず。力を尽すも甲斐なく入門当時といささかも異ならざるに至りしかば、我行力も既に終りとなりてもとの姿に転落せしならんと、師の面前に至りて嘆きたり。その時、師は静かに語るよぅ、汝は死したるなり。屍は如何になすも行力あらんやと。我、此言葉の意味を知らず。師にむかひて、我行ずる力なければ還俗せよとの言葉なるかと。師笑ひて曰く、汝、今日迄の行ひは人間としての任務にて、今はその行ひは全く終りたりたれば、人としての用は全くはたされて必要なきに至りたり。故に従来の行力は消滅したるなれば憂ふるに足らず。寧ろ喜ぶべしと申されて安堵の胸を撫で下せしことあり。
  今慈音は漸く此期に達して教主寛大より授かりし行力失せて、彼はすべてを放棄せんと決意し居るを我は知りたるにより、ここに我の体験を彼に示めし、又今後の修行者にも参考として語りたり。
 慈音よ! 喜悦に変へよ。現在汝はその死後の行を修め居るにてはあらざるか。是即ち無生の行にして、無生とは即ち生なし。所謂人生観を終へて霊界の境地に至らんとなす準備なりと知りて、行を怠るなかれ。是は慈音に贈る言葉なり。
 さて八期の末期より九期に至るいささかの間は、斯くの如く無の境涯となる。恰も陰電気と陽電気とが中和して無電となりたるに等し。是は肉体信仰と精神信仰とが全く平均して一如の姿となりたる故なり。即ち身心一如の姿と云ふなり。世人は是を精神統一と云ひ居れど、事実は此境涯に合ふ統一する人は嘗て見受けざるなり。仏教にて涅槃と称するはこの境地を云ふ。此境涯を世人に分かり易く説明するならば、開きし花が散り終りたるに等しと考ふるならば判明することを得ん。花散りていよいよみのらんとするは九期なり。八期末の行には無欲の如く思はれ居たることも仔細に此理を究むれば、何処にか潜在せる欲求のありしことに気附くならん。然るにこの人期全く終らば一切は空となるによって、従来の行力は全く影を潜めて効果を顕らはさざるなり

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