覚者慈音430





テッシン講録再続篇 下      未知日記第七巻


第九期の拝みは如何にすべきか       其一
                     その30
       
                     第四の巻
                      
             インショウ、ミキョウ貴尊講述


 自己心より脱して初めて其力は備はれど、自己を有する間は到底思ひもよらざるべし。されば拝みと云ふも精神拝と霊的拝とには正反対となるなり。従来は依頼心が潜在し、今後は絶対的となるなり。故に無為の拝みと変じたるなり。今後の拝みは唯慈悲の拝みと思ひて拝みすべし。然るときはすべての欲望は消滅して残るは慈悲のみなり。慈悲は一切に通じて救済する力となるによって、其拝みは絶対なり。斯く語らば世人は思ふならん。慈悲の拝みを精神信仰に於てなし居たりしにはあらざるかとの疑問なるべけれど、そは未だ真の拝みを理解しあたはざる人の質問なるべし。即ち精神信仰中の拝みは憐れみと愛情の区別あるによって、其拝みの場合に於て或時は愛の拝みとなり、又或時は憫みに又或場合には情の拝みに帰し居たるなり。然るに霊的拝には是等の区別なきによりすべては慈悲の拝みとなる。慈悲とは愛情憐憫が結合したるを示めすなり。
 精神信仰中に思ひ至る慈悲は霊的の慈悲とは異なる故に、たとえ其思ひが慈悲に合ふとも、慈悲としてのはたらきとはならざるなり。精神拝には自己を中心として拝みを行ふ現はれとして、或時は怒りを覚え、又或時は悲しみを、又或時は憎悪すら感ずることありたるならん。是即ち自己と云ふ大なる根に囚はれ居たるためなりし故に、慈悲心と思ひ居たるは正しき慈悲にあらざりしなり。即ち自己と云へる大なる根をぬきて幹を枯らせし上からは、喜怒哀楽、又憎み妬み怨みねたみ等のあらざれば、ここに至って真の慈悲の拝みとなるなり。
 大凡霊的拝には慈悲の拝みなれば自己心を伴はざるによって悩める者の来りて訴ふる時、唯その慈悲心に化せられて悩める者の苦悶はぬぐひ去らるるなり。悩みと云ふは垢なり。其垢は慈悲と云ふ洗浄薬によって脱落するなり。釈迦.キリストは何を残せしか。其は慈悲なりと。然り。然り。然あるなり。現在の如く姿を写真し、声を録音しあるならば、釈迦.キリストの姿は残りしならん。されど斯るものの残るとも何等の益にもならざるべし。彼等の姿は失はれたりとも、慈悲は人類あらん限りは残りて失せず。故に人類あらん限りは彼等は死せざるなり。然りと雖も慈悲の力のうち大慈大悲は消えざれども、小慈小悲は消ゆべし。例へばエヂソンが発明したる電気にも今後気光素電気が工夫考案せらるれば、彼の発明は影を没するも歴史は彼を失はしめざるならん。要は其と同様なりと知るべし。
 余事は別としてここに最も大切なる事は慈悲と云ふことなり。我は慈悲と云ふ文字の意味を知らねど、我の語らんとなす慈悲の意味は世人が文字の意味より解釈することとはいささかすべてに相違ありと思ふにより、我の語る慈悲とは文字の意味を拡大延長して用い居ることと諒せられたし。即ちエヂソンが或はすべての学者達の世に処して発明せしも帰するところは慈悲の現はれと解せられたし。釈迦.キリストにして我の語るその慈悲にあらざる慈悲なりしなれば、是は永久残存せざるべし。我の語る慈悲は絶対にして、世人の考ふるは相対なればなり。もし彼等の慈悲が相対なりとせば、我と修行との関係となりて自己と云ふ根あれば、是は哀愍(あいびん)となりて永久ならざれど、唯慈悲の区別なければ大慈悲となる。故に永久人類あらん限りは地球に残存すべし。世人は慈悲と云ふ言葉に対して斯くと諒解せられんことをここに注意して講を進むべし。


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