覚者慈音427

テッシン講録再続篇 下      未知日記第七巻


第六、第7,第八期の拝みについて     其一
                     その28
       
                     第四の巻
                      
             インショウ、ミキョウ貴尊講述


 第八期に至らば精神拝は最高に達す。故に世の中のすべての事柄の道理は明らかに識別せらるるなり。故に迷信にふみ迷ふ憂なし。心眼と肉眼との区別を明らかに定めて、或時は肉眼に、又或場合には心眼を以てすべてを観察する力備はるによりものをあやまり観察することなし。目蓮は世尊にむかひ空気を呼吸せば空中に虫ありて殺生戒を破るを如何にせんと。是に答へて世尊は斯る場合は肉眼を以てせよと教へしと云ふ伝説あれど、そは事実ならざるべし。何となれば目蓮の如き智者にして斯る愚問を発するとは信じられざるなり。
 そは別として肉眼肉耳心眼と心耳を自在に使ひわくるは、第八期に到達したる事を物語ると知りて可なり。肉眼肉耳は距離を有すれど心眼心耳には程度 限度なければ全部を見究むる力を有す。是何によるか、曰く、霊光の力なりとは、我等が修行の原則として努め居りしなり。世人は単に肉眼心耳と軽く取り扱いなし居れど、是は重大なる事にして軽率に聞き流すことは慎まざるべからず。世人の考へは心の感じを心眼として取り扱ひ居ることを我は知る。よって斯くは注意なしたるなり。故に是に対していささか語るべし。
 肉眼の中にも心眼あり。然して心眼の中にも亦階段あるなり。肉眼の二種とは肉眼に属する心眼を指すなり。貴尊方の説かれる心意魂魄霊の区分にて説明すれば、魂魄は霊に属す。故に肉眼に属する心眼とは心意にして、真の神眼とは霊に属する魂魄にあらざればまこと正しき神眼とは云ひ難し。
 今是を細分して説明すれば肉眼心眼意眼魄眼魂眼霊眼と六個に区別することを得るなり。世人が一般考へ居るは肉の心眼にすぎず。故にこの思ひは未だ意眼にも達せざるなり。我等が語る心眼とは即ち魂魄眼を指すなればその心して聞かざれば誤解すること多かるべし。所謂心意眼は肉眼を伴ふにより誤視すること多けれど、我の説く神眼は所謂魂魄眼なるが故に狂ひなし。世人の多くは神眼を求めんとして肉眼をとづるならん。是によって見ても明らかなる如く、真実の神眼を知らざる故に斯る行ひをなすなり。肉眼を閉づれば周囲の妨げとなるもの見えずして、精神統一して神眼は開らくとの考へにて斯る挙に出でたるならんも、実際は是と反対となり、却って雑念に囚はれて幻影を誘ふに過ぎざるべし。もし肉眼を閉ぢて神眼が開らくものならば、盲人はすべて神眼は開らかれ居る筈なり。然るに事実は然らず。盲人は眼の代用となる触覚の働きによって行動なし居るに過ぎざるなり。是等は聾唖者、他に欠陥ある人も皆同様なりと知らば可ならん。然して現今行
はれ居る千里眼とか透視法など称するものの多くは肉眼を閉ぢて、心意眼を働かせ居るにより適中する事もあり、外るることもあるなり。是に反し神眼とは魂魄の働きにして霊に属するにより肉体には拘泥せず、肉眼の開閉などには無頓着なり。故にものの遠近なども問題とはならずして看破するを得。是等のすべては肉眼神眼に止まらず、肉耳神耳も共に同様なりと知るべし。居ながらにして天界の姿を見、又天界の声を聞く。まして下界の事に於てをや。是等のすべてを知らんと欲せば拝みの修行によって真の神眼に浴せずば真の道理は知るに由なし。唯心眼のみに頼りてあやまれる行ひをなすなかれ。心のまなこは狂ひあり。其は肉眼に属するを以て距離を伴ふによって看破の程度も異なるによってなり。拝みの心に傷くるなかれ。拝む心に傷かば心にくもりを生じて神眼は開かれざるなり。ここに注意を要することは、心眼にも神経性を伴はずして神眼を伴ふ場合もあることに留意すべし。


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