覚者慈音426

テッシン講録再続篇 下      未知日記第七巻


第六、第7,第八期の拝みについて     其一
                     その27
       
                     第四の巻
                      
             インショウ、ミキョウ貴尊講述


 精神信仰より霊光に浴せば食料不安もものかは如何なる危機に遭遇すとも決して動ぜざるなり。そは霊心共にあるによってなり。霊光の威徳はかくも尊し。貴尊方が申されし汝等は常に霊なる親に背を向けありしと云へる意味を、世人のうち諒解せし人は稀なり。今是を解し易く語りをくべし。
  例へば世人の宅に来客あらば、彼に対して主人はもとより家族一同待遇にあたるならん。是即ち客に面をむくるならずや。其と同様に拝みする心の起らざるは客なきに等しくして、拝みとは待遇に等しければなり。拝む心の生ずるは客来りたるに等し。もし世人の家に客あらば、一家は醜き振舞をなさざるならん。是は客の手前を愧ぢてなるべし。人にして霊と云ふ客が肉体と云ふ家に来らば醜き我儘を起さざるならん。されば霊を考へざる世人は我儘の振舞をなし居るは霊に背をむけ居るか、或は霊の客のあらざる故に貴尊は斯く仰せられたるなり。
 かれ、客となりて我に来らば、我、彼を遇す。我、客となりて彼に至らば彼も亦我を遇す。斯くして親密の度加はりて相互相助け助けらるるなり。斯くの如くの関係は、精神と霊の間に於ても同様ににして心霊の交はりは主客の関係と見るも可ならん。人間主客の接待には美味なる酒肴を有すれども、心霊の接待は唯拝みのみににして至極簡単なるに、其簡単なる接待すらなすことをせざるは実に憐むべきことならずや。もし拝みする心を起らずば我は、霊の客に接待を忘れ居ると考へて修すべし。
 八期に達したる拝みならば既に霊との交はり厚くして相互が忘れ忘らるる如きなかにらねば、斯る心配はあらざるなり。されど初めの間はともすれば忘れがちとなるによって、ここは注意を与へをきたり。
 さて八期に至れば拝まずば却って相すまぬ観念にて、彼我共に寸時も座右を離るるを好まざるに至る。客に接する家族の如く、肉体は心と共に霊に接するによって従来とは異なり、勝手気儘の振舞もなく慎み深くなり行くなり。やがては其が習慣となりて、今迄窮屈なりと思ひ居たることも却っていぶかる底の姿となるに至る。人は一種の習慣によりては苦も苦とは感ぜず、又楽も他より想像する程の楽とは思はざるものなり。人の様々行ひをなすを見て、我も行ひたしと思ふは人情の常なれど、是を学びて行ひをなす迄は楽みにて、行ひ得るに至らば却って楽みは予期したる程にあらざるべし。人間の生涯の姿も是と同様にして希望に燃えて修養修行にいそしむ間こそ、真の楽みはあるならん。苦みて修養する楽みなるによって粒苦即ち苦を粒すと云ふなりと教へ居れり。真意は我は知らざれど味ふべき言葉ならずや。とにかく前途の光明をつなぎて修養修行する努力する間の楽を満喫するにても、其光明のおかげなりと感謝して可ならん。然して其希望が果されずとも、其収穫は無為に終了たるにあらざるべし。わけて人道を歩まんとの大願を起したる以上、歩みて目的の地点に到達せざる道理あらんや。到達せざるは足を安むるか、或は歩みの遅れたるに過ぎざるなり。

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