覚者慈音424   テッシン講録再続篇 下  第六、第7,第八期の拝みについて  インショウ.ミキョウ貴尊講義

テッシン講録再続篇 下      未知日記第七巻



第六、第7,第八期の拝みについて     其一
                     その25
       
                     第四の巻
                      
             インショウ、ミキョウ貴尊講述


 所謂三体一如とは肉体は精神に従ひ、精神は霊に服す。然る時、霊は精神を補佐し精神は肉体を擁護するによって何等の不安も感ずることなし。霊光に浴せし精神は今迄は主君者なりと誤認して、すべてを処理し居たりしため種々なる事に直面しては苦み居たりしに、今眼のあたり霊なる親に対面し、その徳を知るに及んで主君者は我にあらざる事を悟り得て、ここに重責を霊に委ねて己の荷物が軽くなりしを喜ぶに至る。されど主君者なる霊は神を知るにより如何なる苦痛も決して苦痛とは感ぜずすべてを処理す。
 八期に入りては全く精神と肉体は従来の関係とは異なり、精神は肉体の欲求を無条件に受け入れることをなさずして、肉体にも己自らにも満足を与ふるにより不平もなく不満もなく、生死の悩みなき日々を送ることを得るなり。真の人生観は是を云ふならんとさへ思はるるなり。 
 第八期に達して初めて己の個性と使命を知るなり。されば人は年老いて肉体の自由を失ひてより天分を知りても甲斐なし。故に壮年期に入る迄に早くめざむるにあらざれば、人爵天爵共に全きを得るは難かるべき。故に弱年より修行せんことを我は願ひ望むなり。肉体を打つ鞭はあれど、心を打つ鞭はあらじ。されど肉体を打つは肉体を打つにあらずして、心を打たんが為の鞭ならずやとは古来よりの教へなり。赤子は親の頬を打いど、親は笑ひて怒らず。幼児の親の頬を打つに親は怒りて是を誡しむ。此理を考へしことありや。
 赤子と幼児の相違はわずかに紙一枚の差なるべし。智慧を測定せば寧ろ幼児は動物性にして、遙かに赤子に劣り居るならずや。斯く言はば世人は云はん。幼児は智慧うすきが故に打ち誡むるなりと。然らば訊かん。赤子は何故戒めざる? 赤子は教ゆる道なければなりと云ふか。其は偽りの理屈にて事実は然らざるべし。赤子は無心ににて打ちしは唯訳もなく愛らしければ笑ひを以て答へたれど、幼児の場合は然らざるならん。幼児に打たしは親の沽券を汚されしと云ふ自尊心より復讐を意味したる誡めなりしなり。故に後に至って憫なりと感じて頭を撫であるによっても知ることを得ん。
 世人は口にする三才の翁、百才の童子とは何を物語るかを考へ見ばほぼ察せらるるならん。即ち地球には時間あるによって年齢にて人を測定する故に、斯る言葉の生ずるなり。精神拝成就するに及んでは斯る言葉の必要なし。赤子も幼児も老人もすべては一なれば其が区別し、又差別の必要はあらざるなり。幼児も侮らず。老人も特に尊敬の必要もあらざれば疎ずる事も亦不敬の行為もなさざるなり。既に一切平等と化せらるるによりてなり。されば生死の区なければ死別することも又あらざるを知るによって悲みもなし。永遠に生くる喜悦を悟りによって悩みも消えて我と物との区別なければ、すべてを愛する心のみなり。人爵を得ば高慢の心を生じ、天爵を得ば慈悲の心を生ずとは行ずる者への教訓なり。故に人爵と天爵は格段の相違あるなり。世人はこの教訓の意味を理解することを得るならば、人爵より天爵を受けんことを願ふなるべし。然るに世人は人爵を最大の幸福なりとの自尊心より、福徳とは財宝なりとの誤解より物質を求めて其が得られずば神を怨み世を呪ふなり。

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