覚者慈音423

テッシン講録再続篇 下      未知日記第七巻



第六、第7,第八期の拝みについて     其一
                     その24
          
                     第四の巻
                      
             インショウ、ミキョウ貴尊講述


 さて八期に入りて漸く肉体拝を修め、精神拝となる時、従来是と思ひし行ひが非となり居るにめざめて、是精神拝によって救ひ得る力に変へて、是を救済せば肉体は救はれて、精神に緩和し来るにより従来の迷夢は忽然としてさめ、煩悩即菩提の境地に至る。故に己は何なりしかとの迷ひは晴れて、自らの使命は明らかに諒解するに至るべし。斯くの如くの境涯に達せば火にも焼けず水にも溺れざるなり。又肉体的に於てはすべてに応じて自在の交はりをなして感化するを得。火なれば火に和し、水ならば水に、土なれば土に和して同化せしむる力具備る。即ち大工に接せば大工に左官にならば左官に、学者ならば学者に、芸術家ならば芸術家に応じて同化して説法して是を化せしむを得る尽々不可思議の妙域に達すべし。精神拝の修行によって霊光の父母に面謁(めんえつ)して此徳を得たりと知らば誰か歓喜せざるあらんや。惟ふに動物性にて終らば斯る恵の楽みあるを知らずしてくちはてん人は弱き者とのみ考ふるならん。人には斯る強き力を個々に有しありと知らば、何を措いても修行修養せんとの望みに充たさるるは当然なりと、我は思へど世人には如何?人には苦患を感ずる力は他の動物に勝りて強し。故にその苦患を感ずる時、何かによって速かにまぬがれんことを願ふならん。此願ひを人によって救はれぬ時、何か空虚なるものを求め其が万一効果ありて苦患をまぬがるれば、所謂神の恵なりとして空なる処に眼に見えぬ大なる何物かの働きあり。是即ち神なるべしとの観念より、人は空なるものを求むるならずや。さればその思ひが右に走り、左に曲りて、或は神ありとなし、或は神なしと迷ふに至りたるならん。斯く考へ来る時、苦患の与へられしは神を知る力ともみなされて苦患に対しては感謝せざるべからず。然して他の動物に対しては憐憫の心もて慈悲と情けを与へざるべからず。故に苦患多き人は幸福なりとも見なすことを得べし。されば苦みを受けて感謝する拝みの人ならざるべからず。
 今、セイキョウ貴尊は欣情に来りて肉体よりも精神機能は始末に悪きものなりと、我も亦肉体は正直者にて空腹なれば空腹を訴へ、痛めば痛むと訟ふれど、精神は然らずと、答へしめて相方をして悟るらしめたり。
 肉体の親なる精神が無教育なれば、肉体の子は勝手気儘に育ち、親の精神が教養高ければ子は是に化せらる。故に大切なるは精神の親の教育なるべし。精神の親とは誰ぞ。云はずもがな霊なるべし。然りせば精神の親なる霊は、何故に彼精神をして完全なる教育をなし得るかについて深く注意し、反省せば自覚する処あらん。世人の多くは年老いて肉体老衰に及びて初めて無情を感じて寺参詣を始むる人は多し。されば此寺参詣とは何を求め、何を願はんとて寺に行くかを考へ見るべし。今迄肉体をたよりとして暮し居たりしに、其が老衰して自由を失するに及びて今は彼との生活も旦夕にせまりしを悟り、急に淋しさを感ずるの余り、他に何物か頼みとするものを求めんとなす心より生ずる寺参詣なるべし。然りとせばその寺参詣して何を得るや。唯極楽とか天国の楽みあることを教へらるるにすぎざるならん。肉体とのみ暮して霊なる親を知らずして世を終る故に、斯る誤りし生活をなし居るなり。故に早く霊なる親に対面して身心霊の三体一如の生活をなして永遠のはてしなき真の楽みを味はひ、他人にもわかち自他共に喜ぶ生涯に至らん事を冀ふ。

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