未知日記霊話集千七百三回  帰途案内記 NO123 さりながら宗教に依て正しき転界は、得られると思ひあやまらば、其は誤解なり。宗教はその処に存在する間のみにして、転界には何等の関係あらざるなり。故に宗教は一代果なりと云ふも敢て過言にはあらざるなり セイキョウ貴尊講義

未知日記 第十巻 帰途案内記       
巻の二
転界の巻 
NO 123
セイキョウ貴尊 講述

                    
 正しき拝みをなしてこそ正しき処に転界することを得るなり。信不信は汝の心にあるなり。世の中には多くの迷信邪念等々あれど、其を正しと信じて己に利することを得たる人は、其は迷信邪信と思はるる事も彼にとりては正信となりたるなり。さればこそ汝等の世界には邪宗教がはびこりて、世を混乱なさしめ居れど、信じたるものには、何か益ありての結果より現はれたるなれば、彼等にとりては邪宗教にあらずして、正宗教と思ひ居るが故に、何時迄も悪き宗教は影を没せざるなり。さりながら邪宗教は決して永続するものにあらず。正教より出でたる一種のあしき枝葉の教へなれば、其は枯れて地に落るは是又理なるべし。枝葉は枯るるとも、根強くして正しければ枯るるものにあらざる道理を、よくよく認識して宗教は正しきを択ぶべし。さりながら宗教に依て正しき転界は、得られると思ひあやまらば、其は誤解なり。宗教はその処に存在する間のみにして、転界には何等の関係あらざるなり。故に宗教は一代果なりと云ふも敢て過言にはあらざるなり。
 斯く語らば世人は奇異の感を抱くならん。宗教は自然より現はれたるものにて、所謂自然より自然へと伝はり来りたるものなれば、転界とは不可分の関係あらざるかと思ふならん。もとより然り。されど宗教は枝葉の葉に属するものにて、風に散らさるれば忽ち飛散す。故に転界することは難しと思はば可なり。葉より枝、枝より幹へと順を追ふて、根に返へらば、転界することは至難にはあらざるなり。故に其を根に返へす法として、正しき順路を求めて信の力を厚くするにあらざれば、転界する事は得られざるなり。故に転界せんとなすものは、正しき宗教を択び、その枝葉に相当する処より幹に返る順路を辿るにあらざれば、目的は達し難しと知らば、宗教の択びかたの大切なる事は推して知らるるならん。我等は宗教者にあらねば唯順路を知らしむる事に努力し居るなり。たとひ宗教心なきもの或は又他に種々様々の智者学者等々、己のもてる智識より工夫なして、更に新らしき道を開拓するとも亦、何事をも念頭におかず生きるまま生きて死するとも、転界はなさるるものにて、好むと好まざるとに不拘、行くべき所に到達することも是自然の法則なり。されどなすがまま、なるがままにまかせて何事をもなさず、一生を無駄に過しなば、その結果の転界は危ふくして、下界に転落するもあり、或は魂屑となりて棄てらるるもあるによって、斯る憂ひなからしめんが為に、完全なる稔りを得せしめて安らかなる処に運ばんと計り居るなり。

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