覚者慈音420

テッシン講録再続篇 下      未知日記第七巻



第六、第7,第八期の拝みについて     其一
                     その21
          
                     第四の巻


           インショウ、ミキョウ貴尊講述


 兎角人は肉体と云ふ風呂敷の裡に包みこんであるからと考へ、如何なる思ひを貯へても他には見えず、知られぬと思ひて我儘気儘の考へを起すは一般人の振舞である。是にてよいものであらふか。今日迄言論の自由を禁ぜらた日本国民が急に許されると勝手な熱をあげて天皇制を廃せしめよとか、民主制がどうかうと愚にもつかぬ論説をまくしたて、世をさわがすのみ、何の見るべきものも無きは嗤ふに堪えたり。余事は別として心を肉体に包みあれば、外部より見えず聞えじとの考へを起すは、拝みをなさざる結果の現はれなり。もとより見えじと思ふは迷ひなり。かくすより現はるるはなし。かくす故にこそあらはる。常に公開なし居らばかくすの必要あらんや。宝も倉庫にかくすによって盗まるるなり。常に宝の務を果させあらば盗まるるものにあらず。又宝は形を有するによって他人の眼に映さるる事あれど、心は空なれば他より持ち去らるる心配もなければ公開するも何等差支なかるべし。公開なし難きは己自らこの醜きを恥ぢての恐怖なるべし。さればこの醜き恥かしき心を包みかくして一層汚れを深くせんより、拝みによって速かに洗ひ浄めて何処に公開するも決して恥かしからぬ心に化せしむべし。神はすべてにあやまち傷くる事なからしめんと拝み給ふにて、決して罰せんなどとは思ひもよらぬ大慈悲に包ませ給ふなり。恰も親の子を思ふに等しく、農夫の米を思ふに等し。世人は此神の如くなる大慈悲ならずとも、せめては是に答ふる心構へにて拝みを怠ること無きよう望むなり。
 拝みは肉体拝を卒業して第六期、或は第七期ともならば次第に精神拝となり、七期に達とて肉体五分、精神五分の中点に達す。是を一二支にては午の刻相当すと喩え、音楽は六度終りて更に七度に入ると云ふ。即ち一越より乙の音終りて、七より甲の六音にうつる境の事を云ふなり。又午にまたがれば一方の足は肉体に、一方の足は霊にと別るるに等しと思はば察するを得ん。斯くの如くの関係なるにより、此期は最も重大にして一度あやまれば一方に転落する恐れあるを知りて、行も過たぬ要注意せざるべからず。精神は中心に置かれあるにより、肉体にかへらんと欲せば肉体にかへり、霊に進まんとせば霊に進むことを得らるる自由の竿頭にあるなり。又地球の上層に立ちて下界をふみて見るが如く、仰いで天界を見るに等し。肉体に相当する地球の小さきに驚き醒むると共に霊に相当する天界の偉大さに驚嘆するなるべし。是を思ひ廻らせば従来一大事の如く感じ居りし肉体本位の余りに小さく、霊界の広大にして重大なるにめざむる時、ここに初めて霊の力に縋らんとの念ぼっぼっとして過去の余りに、小さきに留意しありし事を痛嘆するに至らん。

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