覚者慈音419

テッシン講録再続篇 下      未知日記第七巻


第六、第7,第八期の拝みについて     其一
                     その20
          
                     第四の巻



           インショウ、ミキョウ貴尊講述


 例へば人は一七八才の青春期に達したる頃に匹敵す。即ち表面には現はさねど内心情欲に燃ゆると同様なりと知らばよし。是は一度は誰もが経験したるによりよく知ることを得るならん。是ぞ即ち表面は精神的にして、内面に肉体的なれば是を抑圧せんとなすは、即ち拝む力の働きなりと知らば、拝みと云ふ意味も亦手を合はせ頭を下ぐるばかりが、拝みにあらざることも推知するを得しならんと思ふなり。己自ら不善の行為をなしてその不善を心意に止めざるは、拝みを知らざる人なり。斯る人は稀なれども既に不善と知りつつ行ひたる以上、其は必ず内部に蔵さるるならん。外に洩さず内に貯へて呵責の責なき道理なし。健康の間は抑圧と云ふ不善拝によって堪えらるれど、一度病苦に犯されて既に不帰の状態に至らば、不善拝の力は消滅して正しき善の拝みに変じてここに初めて呵責の悩みに変じ来るなり。即ち良心の呵責と云ふは精神が霊光に輝きて生ずる現はれなり。正しき拝みを知らぬ人の為にすべてを懺悔せよと云ふは宗教の方便法なり。
とかく人の心は己が常に抱く悩みを、誰かに打ち明けなばさっぱりするものなり。是を応用したる悔ひ改めの懺悔法なり。正しき拝みは心の汚れを洗ふ洗濯法なることは前にも語りし如くなり。洗ふと云ふは身の垢のみにあらざることは、世人もよく知りながらイザとなりては容易に実行せざるなり。是拝みの行ひ難ければなるか、或は真の拝みを知らざる故なり。手を合はせ頭を下ぐるのみは拝みにあらずと云ふ事は、屡々語り居れど、未だ諒解なし難き人の多きを見る。是世人の無智ならずして、我の言葉の至らざる故なり。
 ここに人ありて汝に向ひて汝の悪き行を語らば汝は怒るならん。是は人の声なりと思ふによりて怒るなり。天に口なし、人を以て言はしむと思ひ、其は人の言葉にあらずして天の言葉なりと思はば決して怒る心は起らざるべし。是も亦拝みより生ずる現象なるべし。拝みとは広きにわたって行ふ法なれば、是を詳細に説明し難けれど帰する処は感謝なり。感謝する心、憐む心等々はすべては拝みなり。拝みの極点は慈悲なり。故に神は常に拝みを行はせ給ふなり。世人は神を拝む神又世人を拝むなり。世人は高きと思ふものを拝めど低きと思ふものを拝まざるならん。是真の拝みを知らざる故なり。世人の拝みは感謝にあらずして依頼の拝みなり。故に高きを拝むなり。世人の高きと思ふは自らの力より優れたるを思ふによって、頭を下げて何事か叶へさせよと頼むならん。故にその拝みは肉体本位、自己本位なり。たとえ他人の為に拝むともそは自己中心の依頼にして帰する処は肉体拝なり。依頼も拝みの部類に属すれど肉体拝にして、そは初心者の行にすぎず。



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