覚者慈音421

テッシン講録再続篇 下      未知日記第七巻



第六、第7,第八期の拝みについて     其一
                     その22



             インショウ、ミキョウ貴尊講述                 
          
                     


 所謂井中の蛙なりし事を慨嘆すると共に、大海の余りに広きに迷はさるるならん。即ち従来は己と云ふ小さき自己を中心として、世人と云ふ大なる力を知らず、すべてを自らに帰せしめんと思ふ如き誤りたる考へにて、月日を無意義に暮し居りしことを悟る時、自らと云ふものの如何に我儘なりしかに恥ずるなり。斯く思ひ来りて初めて自己の何なるかを悟ることを得。されば今迄は自らによって他を引き入れんとなし居たるを、今後は他に自らを化せしめんとの思ひに変じ行くなり。然る時は他人の言葉は自らの言葉なりとして考ふるにより自他の言葉は一如となりて和するなり。斯く語らばその意味は難かしく思ひて、世人は諒解に苦むならん。されど第七の拝みに達したる人ならば、明らかに認識するを得るならん。人我に来り、人我に至らんとするは何か求むる処ありてならん。然りとせば我は人によって、人又我によって事を充たさんとす。是世は持ちつ持たれつするなり。人は頼むに足らずとせば、すべては何によって求めん。我も人なり人も人なるべし。もし他人頼むに足らずとならば世に人類の必要なからん。人を頼むに足らずとの思ひを抱くは、既に自己本位より生ずる自尊心の強きに基因するならん。人は頼むに足らずと語る舌の根の乾かぬ下より、日々の生活を他人によって充たされありながら、是等に対して感謝の心を起らざる道理あらんや。然るに此手近なる処に修養の道備はりあるにも不拘、徒に局外的方面を探ね求めて新しき道を開拓せんと計るも、そは利口ぶるに他ならず。益々自尊心をたかめて却って世を益するに役たたず。世の進化の妨げとなるのみ。労して効なき行為を求めんよりは寧ろ路傍の雑草にてもぬきて交通の足を安からしめよ。我は愚者なり。愚者なるが故にこそ道を修むるなりとの心の底より湧き出づればたかぶる心は起らざるべし。
 「知らぬこと、知ったふりして恥をかき」と云ふ句もあるにてはあらざるか。凡てを知り尽さんとせば一生涯を修するとも及ばざるべし。されば知らでかなはぬこと、又知らで恥なりと云ふことのみを修せば其にて事足る。余りに余事を取り入れんとすれば却て、知らでかなはぬ事すら知ることを得ずして終らん。真宗の門徒の中に、「何事も忘れがちなる我なるに、南無阿弥陀仏残る嬉しさ」とか詠みしありと聞く。此人にして初めて真の往生は得らるるならんと思ふなり。世には片意地なる人は多し。斯る人は益なき片意地を残して死するのみ。往生などと思ひもよらざるべし。されば拝む心によりて其片意地頑固を取り去って、柔和なる心に帰らずば霊なる親に対面は覚束なし。早く迷夢より醒めて大慈大悲の霊光の威徳に浴さんことを願ふべきなり。話の調子の引き入れられて思はぬ説教をなしたることを陳謝してもとの論旨にかへらん。



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