未知日記霊話集千六百九十七回  帰途案内記 NO117 されど天界は永久不変なるが故に、乱雑に見ゆれど決して乱雑にはあらざるなり。八大門の順序は無時間無距離の順序にて、世人の考ふる如くならば、その順序は時間距離を有する姿となる。相対と絶対とにはかく相違あることに心して、我説を聴かざれば悟ることは容易ならず セイキョウ貴尊講義

未知日記 第十巻 帰途案内記       
巻の二
転界の巻 
NO 117
セイキョウ貴尊 講述

                    
 斯く語らば世人は天界とは不規律の処にて順序あるが如く又なきが如き感を抱くならん。即ち相対性世界より推して絶対性を考ふる時は、斯くの如き念を抱くは当然なり。世人の世界は順序あるによつて規律正しく見ゆれど、其有様は滅却の方向に向ひて進み居るが故に或は順となり、或は逆となるにて世人の考への如く、是を正しきと思ひ、正しからずと見れば正しからざる、即ち両道にまたがる組織となり居るなり。されど天界は永久不変なるが故に、乱雑に見ゆれど決して乱雑にはあらざるなり。八大門の順序は無時間無距離の順序にて、世人の考ふる如くならば、その順序は時間距離を有する姿となる。相対と絶対とにはかく相違あることに心して、我説を聴かざれば悟ることは容易ならず。故に注意をなしをくものなり。チより出でてセンに至り肉体を離れて更に又チに至ると知らば可ならん。
 さればチより出でてチに転界するもあり、シュより出でてシュに転界するもあり、ジョウより出でてジョウに転界するもあり、又チより出でてジョウに転界するもあり、或はチより出でてフク、センに転界するもあるなり。チよりチに返ると確定なし居るものなればそれは絶対にあらず。何となればすべてのものがチより出でてチに帰ると確定したるものなれば、修養修行の必要はあらざるが故なり。この説に至って世人は又も疑ひを生ずるならん。チより出でてチに帰るは自然なり。然るにチより出でて或はキュと異なりたる処に至るならば、其は自然の法則にはあらずと思ふならん。世人と我等の考へにはここにも亦隔を有す。もとよりチより出でてシュ或はキュに至るとも、自然の法則により考ふる時はチより出でてチに帰りたるに相違なきなり。たとひシュに返りキュに帰りたりとて、自然はチよりチに返へしたるにて、帰りたる場所を指すにはあらず。この事を予め承知なしをくべし。
 此理は世人の世界にも通じ居るなり。昨朝と今朝とは異なるならん。されど朝と云ふに変りはあらざるなり。其と同様の関係ありと知りをかば可ならん。世人はすべて母の胎より生をうけしは誰もが皆一様なりしならん。されど死する処はその悉くが一様とは云ひ難し。天の理は斯くの如くの道理あるによってその自然の力が末端に至るとも異なる事なきなり。例へば今日生れたる人間が何千何万ありと仮定して、その何千何万が死する日は同じきかと云ふに然らざるべし。今日生れて明日死するもあり、十年百年生くるもあらん。是即ち自然の末端に迄及び居る点の現はれなりと知らば頷く処あるなり。生れて死するを千よりセンと考ふるならば、又生るるは千より始まる故に是等は千より千に帰りたるに相違なし。されど今日生れて明日死したるものと、又十年百年の後死したるものとの結果に於てそのものがシュに適したるか、或はギョウに適したかの終りとならば、そのものの転界は所謂シュに、或はギョウにと、其々異りたる場所に転界せられたるにて、其は修養修行の徳によって異なるなり。其等と同様の関係ありとして考慮し居らば、我等の説は認識すること至難にはあらざるべし。即ち稔りの程度の如何によつては斯くは隔を有すと知るべし。

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