未知日記霊話集千六百九十回  帰途案内記 NO110 人はすべて健全なる間は種々様々の言葉を口にして、悟りたる如く他に感じを与へしむるのみにて、事実はかくも簡単なるものにあらず。無智者にして信仰厚き人は、却て生死を明らめ居る人は多し。僅少なる智慧をはたらかせ居る人は、却て生死を厭ふもの多し セイキョウ貴尊講義

未知日記 第十巻 帰途案内記       
巻の二
転界の巻 
NO 110
セイキョウ貴尊 講述

                    
 さて肉体を有する間に修養を重ねて、来世の如何なるかを知ることを得ば、肉体を有する間より肉体と共にその喜びを味はふことを得るならば、此上もなき幸福なりとは考へざるや。我等世人に語りし如く肉体亡びての後の修養修行は、至難なれどたとえ苦しくとも肉体を有する間に修養修行して、上界の如何なるかを認識把握なすならば、来世の楽みは現在にありて予測し得るを以て、迷ふ事なく欣喜雀躍して、転界することを得せしめんと教ゆるものなり。此境地に達しなば生は易く死は難しの姿となるなり。世人の現在は生は難く、死は易しの考へとは全く反比例となるなり。世人は生の苦みに堪えかねて死をはかり居れど、一度その苦を脱すれば死を厭ふ結果と化せらるるならん。斯ることにては生死を明らめたりとは云ひ難し。死を生に変へて生死一体化せざれば、正しく生死を明らめたりとは云ひ難し。生は易く死は難しの明らめとならば、未だ死と云ふものの影を有す。故にこの難き死を生に同化せしめて、初めて生死を一体化せしむる生に変へるにあらざれば、正しきさとりは得られざるなり。生もなく死もなき境地に到って初めて全き転界をなすことを得るなり。世人は此理を解し得るや。此理を解し得る迄修養して徳をつむべし。然らずばさとりは得られじ。さとる事あたはずば上階を見ること聞く事も亦難からん。ここに一段の工夫を要す。
 生死の問題について或人は言ふ。死する迄生を持続せんとならば、生死はものの数ならずと語り居るを聞きたり。この説は一見生死を明らめたる言葉の如く思はるれど、事実に於て此言葉発し居る人にして、心底より生死を明らめたる言葉なるかと云ふに然らず。かかる事を口にする人は却て死に直面して狼狽すること多し。人はすべて健全なる間は種々様々の言葉を口にして、悟りたる如く他に感じを与へしむるのみにて、事実はかくも簡単なるものにあらず。無智者にして信仰厚き人は、却て生死を明らめ居る人は多し。僅少なる智慧をはたらかせ居る人は、却て生死を厭ふもの多し。金銭財宝を多く得れば、豪奢の生活を望み、財宝尽くれば貧を厭ひて悪事をたくらむ。斯る人にして生死の明らめ得る道理あらんや。生死と云ふ二つの言葉は至極簡単なれど、この両者を完全に明らめ得る人は万中の一にもすぎざるなり。さればこそ国を富ませ家を富ませんが為に、他国を侵略せんと謀る如きは、是皆生死の悩みより生ずる現象なりと云ふも、敢て過言にはあらざるべし。生くるも死するも凡てを神に或は仏に任すと云ふ底の信仰に迄進みたる人にして、初めて生死を正しく明らめ得ることを得るなり。早く死に度しと考ふる如き人は、何か己の心に悩みを有するか、或は身体虚弱の苦痛より現はるる思ひにて、是等もさとりたる人にあらず。又長く生きんとて肉体に養分を与へ、心に楽みを与へんとなす如きも、是生を明らめ居る人にはあらざるなり。故に上界に昇らんとならば、先づ生死を明らめて任務をおろそかにせず、修養するにあらざれば望は達し難し。又生死を正しく明らむるにあらざれば、天界を知ることも至難なり。何となれば生死を明らめずば、生死と云ふ濁りたるものの障碍ありて、為にそれは雲の如く太陽をさへぎるによって、上界を観望すること難きと同様の関係あるによつてなり。よって生死の雲を払ひ天界の光明を魂に輝かせて、初めて転界の道は明らかとなることに思ひを致して、修養すること肝要なり。故に一切悉くを神に返へして、己が任務をおろそかにせず、日々励み居らば其にて望は達せらるるなり。此教へはすべて初心者に対しての説明にして、修行の進みたるものには別段語るの要なけれど、多くの人の中には、未だ行の何なるかを知らざる人多き故、注意迄に語りをくなり。

×

非ログインユーザーとして返信する