未知日記霊話集千六百八十六回  帰途案内記 NO106 世人の信仰は今日は東の門をのぞき明日は南の門、その翌日は西の門更に北門と門内ばかりのぞきこみて、東西南北を駈け廻る信仰をなし居るため、転界は得られずとの理は是にて察することを得たるならん セイキョウ貴尊講義

未知日記 第十巻 帰途案内記       
巻の二
転界の巻 
NO 106
セイキョウ貴尊 講述

                    
 世人の信仰とは所謂門前の信仰に終りをるなり。門前にて内の様子を見るとも甲斐なし。門内に入りて更に奧深く進み行くにあらざれば、その家の広大さを知ることは難からん。世人の信仰はいとぐちだけの信仰にて、生涯を過ごし居るが為正しき転界は得られざるなり。門前信仰いとぐち信仰のみにては転界はなり難し。
 例へば世人の信仰に入るには己が肉体の悩みを神仏に訴へて、その悩みの清除せられたる時、はじめて神仏を帰依するに至る。然してその神仏のみを崇拝して、其によって全く完全なる信仰は得られたる如く思ひ居るため、是をいとぐち信仰門前信仰となりて終ると云ふなり。されどその信仰を得たる処より更に奧深く門内に入りて、然して中の様子をよくよく見きはめ行きてこそ、正しき認識は得られ又正しきさとりは得らるる筈なるに不拘、門前信仰にて終るは遺憾なり。
 門前信仰の中には種々様々の門ありて、その形状異なり居るため、世人の信仰は此門かしこの門と唯その数々の門を見学するのみにて、内に入らんとなさざる底の信仰者は多し。何れの門より入るとも奧深く侵入せば、其にて信仰は全きを得るなり。転界の道理はかくの如くにしてその範囲はきはめて広し。されど到達すべき所は多からず。到るべき所は一に帰す。徒らに門内を覗きて又他の門内に入る如き事を繰り返へさぬ用心肝要なり。
 世人の信仰は今日は東の門をのぞき明日は南の門、その翌日は西の門更に北門と門内ばかりのぞきこみて、東西南北を駈け廻る信仰をなし居るため、転界は得られずとの理は是にて察することを得たるならん。

×

非ログインユーザーとして返信する