未知日記霊話集千六百八十一回  帰途案内記 NO101 神仏を正しく認識せざれば、生は明らめらるるものにあらずと、我は断言して憚らざるものなり。汝等が思ふ神仏と我等が語る神仏には相違あり。汝等の神仏を聯想し居るは何かの力を神なりとして考へ居るならん セイキョウ貴尊講義

未知日記 第十巻 帰途案内記       
巻の二
転界の巻 
NO 101
セイキョウ貴尊 講述

                    
 よく我等聞く処なるが、彼は善人なるが故に来世は良き所に生るるならんと語り居るを聞く。されど是等は千日の萱(かや)の其の如し。たとえ悪人と雖も一旦改悟して神仏を知るに至らば、彼は忽ち転界することを得るなり。我かく語らば汝等は地球に生存する間、悪事をなし居りても神仏を知るならば、忽ち転界するならんと思ひて悪き行をなすならば、其こそ大なる誤ちなり。神仏を知り得て焉んぞ悪事をなすことを得んや。悪事を行ふものは神仏を知らざる故なり。正しく神仏を知り得たるものならば、如何なる場合に遭遇すとも、決して悪事をなすものにあらず。故に宗教によって神仏を知る事は大切なりと云ふなり。善行を営みて極楽に至り、悪行を犯して地獄の責めをうくるとの教への意味はここにあるなり。されど事実と説教とは相違あるなり。極楽に上らん為に善行を営むとも、其は何の甲斐もなし。悪行を犯しながら天界へ上らんと計るとも其も及ばざるなり。善行悪行はものの数にあらず。要は神仏の存在を正しく認識するにあらざれば目的は達し難し。汝等の日常生活は生きんが為の善行を営むもの、或は生きんが為に悪行を犯し居るもの、すべては生きんがための悶え苦しみより現はれたる現象にして、其等は唯生の苦しみより、如何にかしてまぬがれんとの方便策に過ぎざるなり。是生を明らめ居るとは云ひ難し。
 されば生をたしかに明らめたる人ならば死はものの数にあらず。死するは易く生きるは難しと云ふ言葉は、汝等の世界に於て成立す。是等は今迄述べ来りたる処によって、明らかに知ることを得るならん。汝等は死を思ひ切る事はなし得れど、生を明らめ居る人は少なし。是一方的にして即ち易き方を明らめ、困難なる方を未だ明らめ居らざるが故なり。神仏を正しく認識せざれば、生は明らめらるるものにあらずと、我は断言して憚らざるものなり。汝等が思ふ神仏と我等が語る神仏には相違あり。汝等の神仏を聯想し居るは何かの力を神なりとして考へ居るならん。力は神にあらず。又仏にもあらざるなり。正しき神は力にあらず。力は法なり。世人は法力の現はれを見て其を神なり、仏なりと思ひあやまりて信仰なし居るが故に、真の神仏を知ることを得ざるなり。是を学理的に語るならば、大自然の根源を神なりとして考ふるも可ならん。然する事によって真の神を発見するやも計られざるが故なり。されど大自然の根源を神と思ひて研究なし居らば、稍もすれば横道に迷ひて根源をあやまたん。根源をあやまたば神を知る事は得られざるべし。故に学理的より神を知らんと計るとも、其は時間を費消するのみにて、或は空虚となる恐れあるなり。

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