覚者慈音414 テッシン講録再続篇  拝む修行の第五の階について  ミキョウ貴尊講義

テッシン講録再続篇 下      未知日記第七巻




拝む修行の第五の階について        其一
                     その16
             
                     第四の巻
           インショウ、ミキョウ貴尊講述


 いよいよ第五の期に到達せば是よりは肉体七分精神三分本位の境涯となるによって錯覚作用も顕著なるなり。故に是よりは非常に至難なる修養修行となる。従来の拝みは抑圧するの法にして陰陽にて説明するならば陰に属する拝みなりしが、第五よりは陽に属する拝みとなるによってなり。第五迄の拝みはすべてを抑圧せんとなす現はれとして合掌低頭の気分にて拝するにより自然肉眼を閉づこと多かりし。是即ち内面的拝なりし。されど第五期よりは今迄とは異なり心に屈託を感ぜざるるにより拝する心も従って眼は外にうつさるるなり。故に拝する心は内外両方面にわたる拝みと変ず。或は内面に或時は外面にわたって行ずると知るべし。恰も旅せんとするもの、其日程に従ひて準備なし終り、いよいよ其日の朝になりたると同様と知るべし。故に或僧は弟子達に向ひて拝みする人は歩みと心得よ。足を止むれば道は進まじと誡しめ教へしと聞きたり。行は急がずゆるめず断間なく行ふべし。斯くして怠らずばやがては望みの地点に達せん。世の中には人を呪ひて命を断んと計りて祈り拝みするものもあり、近代人には斯る事をなすものは少なけれど宗教盛なりし頃にはよく行はれ、行者の中にも多くの報酬を目当てとして斯る祈祷をなせし者も少なからずありたり。現在人には是等を如何に考ふるや。もし神は正しきに組みし給ふなれば、斯る祈りには聞き届くべき道理なしと考ふる時、一種の疑問を抱くならん。世人は疑問を抱きても其疑問を解決せんとせず、何時迄も放棄しをくは宜しからず。されば疑問は解決してのち放棄せば可ならん。解決するは覚りなり。悟らずば迷ひは益々深刻となるのみ。世人は常日頃気に掛る事を長く放棄しをく風習あり。是は宜しからず。修行修養者の妨げとなる故に、気に掛る事は速かに整理すべし。余事はとにかく神は人命を無為に断つことは如何に願ふとも許し給はず。然りとせば何故呪ひの祈祷をなして効果ありやについて疑問をはらすべき要あるべし。
 此祈祷拝みと云ふは、即ち神の業にあらずして拝みする者の念の力に他ならず。所謂呪ふ者の念の電力が、呪はるる者に感電して死に至らしむるなり。故に拝みとは念力増大法とも云ひ得るなり。念の力とは霊の働きなり。故に拝む修行によって電力を増大し智慧の機械を運転して世の中のすべてに貢献せば益せらるるは言を要せざるならん。電気のモ-タ-には種々ある如く人も亦其々の動力の相違あるべし。一馬力の人は一馬力の力を働かせ、十馬力の人は十馬力の働きをなし居らば、其にて使命は果さるるなり。一馬力の人が五馬力の重荷を課せらるれば、モ-タ-は焼滅するなり。又十馬力の人が一馬力の働きなし居らば、九馬力は無駄に費消せられてあそぶ。故に此人は怠惰となりて使命を果すことは得ざるなり。話は横道に入りたり。もとに復すべし。

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