覚者慈音415    教誨師の方々へ

教誨師の方々へ


 僕のブログで一番読んで戴きたい人達がいる。それは死刑宣告をされて、何年後かに刑の執行をされる方々だ。そのなかでも特にいま神の救いを真剣に求めている人達にこれをお読み戴きたいと思う。その人達がこの未知日記を読まれたなら、乾いた砂地に水が染み込むように貴尊方の言葉を素直に理解され、高い高い悟りの境涯に到達されるのではないかと思う。是非とも教誨師の方々がこのブログの内容を見て、その方々に知らせて あげて欲しいものだ。天使の方々の声を聞き、地獄は必定と思っている受刑者の一人は斯く云うだろう、「嗚呼、こんな俺ですら神は見捨てずに救ってくださるのか。本当に有り難いことだ」と感謝の涙を流されるに違いない。その人達は肉体はともかく、他の誰よりも魂の救済のみを一筋に冀っておられるからだ。その救済に役立つ祈りが厳戒の辞だ。ここに厳戒の辞を一部引用する。

「心をこめて先方に諾と云はしむるに至る底の力なくんば、目的は達し難からん。この理をよくよく認識して厳戒の辞を神に捧ぐるに当たっては、有耶無耶の心持ちにて祈りをなさば、通ぜざること多からん。故に此言葉を厳戒の辞と称したるなり。厳戒の辞とは己が心底より発する真実の言葉を云ふなり。故に無言詞音の間に、己が目的を心の底より現はしをきて、後の音をその力を、更に拡大強力になして他に心を移さず、真剣に願はざれば、諾の許しは難しとの念を強くせよ。然る時は何事も叶えられて決して否とは仰せられざるなり。我願ふ事の善悪に不拘、心の底よりかくと決意したる望みならば神はそのものの結果如何に不拘望を叶へさせ給ふなり」


死ぬときに「あらたのし 思ひは晴るる 身は捨つる 浮世の月に かかる雲なし」の心境でその日を迎えさせてあげたいものだ。 僕達は幾億年前の過去には小動物の時もあり、何万年前には石器時代、そして今生、いま人間として置かれる迄の間には筆舌に尽くせぬ苦難の道を互いに歩んできた筈だ。小高い山は勿論の事、急峻な山、絶壁をもよじ登り、幾つもの山河を踏破してきた。そして数え切れぬ程、肉体の生死をも経験してきた。更には親しきものとの愛別を幾たびも繰り返し、いま再びそのもの達と此処に邂逅している。そしてこのあとも無限時間ともいえる永遠の長旅が待っている。それに備えてしっかりと今からその旅支度をしよう。人生は決して一代限りではない。今共に生きている私達はすべて生死の場数を誰よりも数多く経験した大ベテラン達なのだ。
 何故、神は私たちに生死を与えたか。仮に私たちが不死の肉体を持っていたら、私たちの肉体は元級のままに留め置かれ、僅かの変化発展をも望むべくもありません。よって限りなく魂を成長させ、同時に肉体に変化を与えるために、神は私たち人類に死を与えたと聞いています。この世で愛別離苦の苦しみを味わった者に、こういった言葉を投げかけても、おそらく首肯されるはずもありませんが、長期の視点に立てば、死はまさに慶事でもあるといえそうです。残念ながら「人生一代限り」と思う短いスパンから考えれば、字義の通り、死は忌み嫌われるものになってしまうのでしょうね。

×

非ログインユーザーとして返信する