覚者慈音413





テッシン講録再続篇 下      未知日記第七巻



拝む修行の第五の階について        其一
                     その15
             
                     第四の巻
           インショウ、ミキョウ貴尊講述


 そはとにかく先に語りし老人現はれて語りたる等は、即ち伝統的暗示より生じたる自己錯覚に属す。其は何か宗教的書物か、或は他より聞かされたる神の姿を、己の心に聯想し絵空事として止めをきたるものが、暗示となりて潜在なし居れど、肉体健康なるにより、又雑念虐げられ居りて平素は現出せざりしなり。然るにたまたま拝みの修行熟達するに従ひて雑念は去り、ここに肉体組織は一変するに至り、此時に至らば一時は自己催眠状態に化せられて斯くの如くなる潜在暗示が夢中に、種々の組織によって現出したるにて、是は事実にあらずして謂はばめざめ居て夢を見居ると同様なれば、即ち一種の錯覚作用なりと知るべし。古来より支那日本或は他の国にも狐狸の人をたぶらかすとか云へる事も伝統的暗示の働きなる事は貴尊方の既に述べられたり。されば有識者の中にも是を覚らずして信じ居るものも今尚あり。然して彼等は自ら体験したる如く語り居るため、無智者は是を信じ、其が又伝統的暗示となりて今後も残るならん。自己催眠より種々変りたる錯覚を生ずるものなり。学生などが試験勉強によって身心疲労し漸く試験終りて安心して学校の門を出づれば、此時一時疲労を感ずる結果、自己催眠に陥り道なき所に道あるが如く錯覚して転落し、めざめて後、其が狐狸の仕業の如く曲解する例は少なからざるなり。又世には妖怪屋敷とか云へる事に対しても究むれば此種に属する事は少なからずあり。死霊生霊怨霊等々の伝説もあれど、是等に関しては貴尊方が既に語られたれば省略すれども、是等に関しての伝説の多くは催眠作用自己暗示より生ずる恐怖錯覚に基因すと知りて迷ふべからず。又神懸かり霊感或は巫子等の多くはみな催眠錯覚に類するもの少なからざれば敢て信ををくに足らずと知るべし。我等修行中にも是等の迷ひに陥りて遂に師より退門を命じられ、山を追はれるもの少なからずありしなり。とにかく感応と云ふことは、其人々の持つ特徴にして精神の強弱に従ひて多少の相違あれども感応せざる人は一人としてあらざるなり。是あるに依って人智は発達す。もし此感応なかりせば、立腹喜悦悲しみ等はあらず。是あるに依って褒めらるれば悦び、謗らるれば怒るなり。
 第4の行の末期に達して霊光はほのかに見えはじむる故に、肉体の神経は平均なして従来の如き喜怒哀楽の様とは異りたる姿と変じて、新しき喜怒哀楽の四様は現出し来るなり。例へば他人より我に謗られありと聞けば、従来は謗りたる人を謗りかへす立腹なりしも、四期の末期に至らば斯る場合決して怒りかへす如きをなさず、却って我の至らざりしを誡め、至らざりしとの念湧き出でて感謝の気持ちとなりて喜ぶなり。故に昔の怒りは今の喜びと化す。修行の結果には斯る相違ありと知るべし。是即ち肉体の苦は半減せられたる故なり。すべて感謝する心に変ずれば肉体の欲求力は従来の如くならずして心任せとなりて、臨むは寒暑の苦と飢餓のみとなる。故に心も気楽となり、常に明朗なれば悩みと云ふものはぬぐひ去られて影を止めざるなり。
 



×

非ログインユーザーとして返信する

あと 2000文字

※は必須項目です。