覚者慈音412  テツシン講録再録篇 拝む修行の第五の階について インショウ.ミキョウ貴尊講義

テッシン講録再続篇 下      未知日記第七巻





拝む修行の第五の階について       其一
                     その14
             
                     第四の巻
           インショウ、ミキョウ貴尊講述


 第四の階段に見る如く人の心の異なるにより、其個性に応じたる拝みをするは此階なりし。されど拝みの功徳によりて一階二階と上昇し行くにより、個性は一段と進み行くは恰も小学校より中学大学と進む時は、其人格も従って高くなると同様なり。故に第四の階より第五階に進まば、又新しき修養の学問をなさざるべからず。次ぎに語らんとする第五階よりは精神信仰に属すと知るべし。
 今迄説きたる事柄はすべて肉体信仰にして、是よりは積極的なるによりいささか難かしくなるは是非もなし。よって今迄の事柄をよくよく心に止めて次を熟読せば自づと諒解するを得べし。
 さて第四の修行終る頃には精神は水の如く澄みて、今迄感じたる事なきものを感ずるに至るべし。即ち拝む力の働きによって雑念は清除せられたる現はれとして、身心爽快となるによって霊光はわづかに輝き初めたる故なり。されば此境涯よりの心構へを知らざれば迷信に陥るなり。精神信仰を知らずして肉体信仰に囚はれ居る人は此期より錯覚に陥りて、神懸かりとか称する変調に悩まさるるを、神懸かりと信じて無暗に有難く思ひて一種変態的自問自答をなして、其がもし適中せばいよいよ出現したるならんと誤解し、周囲の人も亦彼に神が乗り移りたるならんなどと誤解して、所謂相互が誤解と誤解より彼を祭り上ぐる結果彼も自らは高き位に上がりたりと思ひあやまりて、此処至って折角の修行が頓挫して遂にもとの彼に顛落するに至るなり。甚だしきに至っては世を害する悪魔にて終るも現はるるは憂うべき事なるべし。
 又第四の行の末期には単に錯覚とは思はれぬ奇現象さへ起すことあり。例へば己眠ね居らざるに偶然不思議な白衣の老人何処よりか現はれて種々様々の話をさへなして消え失せる等の事もあるなり。是等の事については後に詳らかにせんが為に、ここに錯覚幻影の事柄について理論を語りて誤解を解かん。
 錯覚には数種あり、其うち最も多きものは神経錯覚と暗示錯覚とに属すべし。又暗示錯覚には伝統的暗示と直接暗示とに区別することを得。然して神経性の中には多種ありて他より受くると、自らより案出するとの区別あるなり。されど是を一括すれば精神感応に帰せしむる事を得るなり。故に精神修養に依って智徳兼備せば斯る錯覚は生ぜざるなり。されど智徳そなはりても行の至らざる人にして、肉体に故障ある時は錯覚幻影に悩まさるる事多し。故に行は大切なり。  

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