覚者慈音411

テッシン講録再続篇 下      未知日記第七巻


拝む行者の第四の心得について       其一
                     その12
             
                     第四の巻
           インショウ、ミキョウ貴尊講述



 さて第四の段階は如何なるを云ふかについて語らん。先づ是等の事柄を知らんとせば、今迄語りしことを深く考慮すべし。俗言に「自惚れと瘡気(かさけ)の無き者はない」と云ふあり。瘡気の無き者はあれど、己は愚者なりと真実自覚し居る人あらば、其は愚者にあらずして真の賢者なり。されば一円の人は一円を知らずして百円と思ひ居るも事実なり。故に我も人、彼も人なり。彼にをくれをとる者にあらずと自惚れの心は何れかに存在なし居るなり。自尊心なくんば拝む心は生ぜず。何となれば己より優れたる者あれば、其を見ては内心穏かならず。何とかして我も彼に勝りたしとの念湧き出づるも自尊心の現はれなれば、是に勝たんと望む心は既に拝む心なり。故に人には負け惜み強きは向上発達せしめん為に神は許しをきたるならん。然るに人は是を知らず。悪き方向にのみ濫用なすによって、或は妬みの心に変じて罪悪を犯すに至るなり。されば自尊心を有効に働かせて向上の一途を辿らざるべからず。従来この事柄に対し自尊心の用途を知らざりし。又徒に是を無意識に濫用なし居たる世人なるが故に、種々様々罪悪を作り、又諸々の事柄を集収しありし結果、其が積み重なりて邪念妄念或は雑念となり居りて、霊に見ゆることを得ず、今日に至るも世人は迷夢を醒さざるなり。
 仏教キリスト教などには、罪を懺悔して早く悔ひ改めよと教へしは此理より出でたる方便なるべし。されど此理を詳しく説明せず、単に犯せる罪を悔い改めんとか、懺悔せよとかにては一般には是を宗教くさきとか、或は神に罪を詫びたりとて何の利目もなしとか、我には罪など犯せし事なしとか考へ、或は自尊心に囚はれて己の行為を内心深くをしかくして面をつくろひ居れど、内心安からざる人多かるべし。罪とはあながち罪悪のみに限らず、すべては積みなる事に留意すべし。斯くの如くつみとは多くの反故紙の集りなれば一枚々々を拝む心になりて、是を焼き捨っれば、即ち全部が消滅すべし。又積みとは衣の垢なれば拝みと云ふ薬剤にて洗ひ清めて清浄ならしむべし。
 大凡男子は大ざっぱにして余程重大なりと考ふる事は、脳裏に貯へ居れど、些細の事柄と思ふことは余り印象に残さざるなり。故に男子は物事に拘泥せず、故につみは少なしと云はれ居るなり。是に反し、女子は綿密に頭脳を働かす結果、些細の事にも意を用ゆるにより、男子に比して積み重ぬる事柄は多きによりつみは多し。是等より仏教者は女人はつみ深くして成仏成り難しと教へたり。されど成仏せずとは説きたるにあらず。是を要約すれば女子は男子に比して雑念の多くして霊との対面は時間を要すとの結論となるなり。所謂前に語りし百円について考ふれば男子は百円紙幣に匹敵して、女子は一円紙幣にて百枚を要すと思はば可ならん。即ち男子のつみは女子の百回に匹敵すと心得て、拝みの心も強く、女子は男子と比較して彼の一回分は我等は百度なさんとの思ひにて拝みを持続して行はざるべからず。一円五円十円百円に相当する個性の人は、皆其々の価値に匹敵するつみの有するなれば、其々価値に応じて拝み、一々洗ひ清めて霊の徳に浴すべし。例へば親になっても幼児の頃より行ひ居たる事柄が胸に浮び来らば事の善悪を問はず拝むべし。
然る時はその拝みに依って悪行は滅し善行は徳を現はすなり。是は生理学上理論は成立す。宗教は因果の道理より神仏を目標となし其に懺悔せしめて抑制せしめんと計り居れる方便にすぎず。是を他力にては念仏を積めば如何なる罪業にても消滅して、往生疑ひなしと教へたるを見ても拝む力の大なるかを知るならん。念仏するとは拝む心を云ふなり。故に人を羨む心起らば拝むべし。憎む心起らば拝むべし。物事を深く考ふれば愚痴の出づるものなり。故に智慧の及ばざる時も拝むべし。さらば明智は湧き出でて解決を与ふべし。是第四の拝みの要訣なればなり。
 

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