未知日記霊話集千六百二十四回  帰途案内記 NO43  己日々の任務をなしてゐながら神の恵を受けずして喰ふことあたはずとも、其は神と魂とが何かの理由ありて是を与へ給はざるなりと思ひ明らむる底の考へならば、其にて喰はずとも決して神は飢えしむるものにあらず。その明らめの念こそ拝みに合ふ故なり  セイキョウ貴尊講義


未知日記 第十巻 帰途案内記       
巻の一
大序の巻 
NO 43
セイキョウ貴尊 講述

                    
 年たけて体の自由意の如くならざるに至ってはじめて狼狽し、ここに何ものか頼り頼むべきものを追ひ求むるに至るは一般人の習性なり。肉体の自由失はざる間は肉体に信頼し、自由意の如くならざるに至って他に信頼するものを求めんとするも、不安の念より生ずるあらはれならずや。斯るわかりきりたることを世人は考へ居らざるが故に、さてこそ信仰と云ふものの正体は何なるかをすら知らざるならん。さればこそ我等が魂に背をむけ居ると云ふ言葉さへ聞き流して、余り脳裡に印象し居らざるにてはあらざるか。最初より魂信仰に重点を置き居らば、年たけても不安と云ふ念は起らざる筈なり。故に幼き時より教訓して魂に重点をおく信仰を植えつけおきなば宗教の必要はあらざるなり。
 魂を信頼して心をこれに順ぜしめ居らば不安はあらざるなり。頼るとか頼むとかの望は信なくしては得らるるものにあらず。すべてを神に任せすべてを魂に任す底の信仰ならでは正しき信仰とは云ひ難し。神に任せ魂に任せて尚不安の念生ずるならば、其は信仰の度未だ弱きが故なり。信仰の度加はるに従ひて不安は薄紙をはぐが如く消滅するにあらざれば正しき行とは云ひ難し。不安を取り去る行法は、即ち拝みならでは他に術はなきことも推して察するならん。一つの事柄に対し不安あらば、その不安を魂に任せ、神に任せるには信ならざるべからず。その信を起さしむる動力は即ち拝みなり。唯その不安なる事柄に対して如何になるとも其は魂と神の思し召しによるとの念を強ぅすることを拝みと云ふなり。手を合はせ頭を下ぐる如き拝みを指すにはあらず。己日々の任務をなしてゐながら神の恵を受けずして喰ふことあたはずとも、其は神と魂とが何かの理由ありて是を与へ給はざるなりと思ひ明らむる底の考へならば、其にて喰はずとも決して神は飢えしむるものにあらず。その明らめの念こそ拝みに合ふ故なり。

×

非ログインユーザーとして返信する