未知日記霊話集千六百十九回  帰途案内記 NO38  近代の学者は斯る不心得の人多きが故に、学問に縛ばられて却て道を暗くなし居るなり。故に学者は却て信仰をうすくす。信仰なくして我等の説を聞くとも耳を籍すことあたはざらん  セイキョウ貴尊講義

未知日記 第十巻 帰途案内記       
巻の一
大序の巻 
NO 38
セイキョウ貴尊 講述

                    
 汝等の学問は学を蔵するにて、表面に表はして学徳を発揮さする学にはあらざるなり。富者は金に縛られ、学者は学に縛ばらるるは、蔵して表面に現はさざるが故なり。宝を蔵して何の益かあらん。宝の徳を表はすにあらねば、貯へて詮なし。斯る事は世人もよくよく認識なし居るに不拘、世人の中には吝嗇家(りんしょくか)ありて生涯を金の為に番人となりて終る人多し。学者に於ても亦同様の人すくなからずあるなり。我等憂ふる処は近代の学者達の様を見るに、真実学問を旨となし居らざる人多きを悲しむ。所謂学問をして名誉を高くし、其によって財宝を求め生涯を安らかに暮さんとはかる輩の多きは遺憾なり。即ち名誉と金との為の学問にて、学問の為の学問にあらず。斯る人は所謂二道を一道にして歩まんとするが故に、正しき学問をして世を益することあたはざるは遺憾なり。慎まざるべからず。宗教めきたることを語りて紙面を穢したり。もとに復すべし。
 近代の学者は斯る不心得の人多きが故に、学問に縛ばられて却て道を暗くなし居るなり。故に学者は却て信仰をうすくす。信仰なくして我等の説を聞くとも耳を籍すことあたはざらん。余事は兎に角天界と下界の有様は余りにかけはなれたる相違あるによって、口をきはめて筆をはしらすとも及ばざること多し。されど天界も下界も一律一体にして不可分の関係にあらず。原理に逆上らばすべては一なり。唯枝葉の姿が異なり居るにすぎず。故に原理をきはむれば、如何なる変化なしたる有様を見聞すとも、明らかに察するを得るなり。汝に与へられたる肉体及び精神と雖も、皆全宇宙の大自然によりて現はされたるものなれば、即ち同一原理によって組織せられあるが故に、肉体と精神の姿をよくよく究め尽して其に基きて、全宇宙の有様を見聞する時は、すべてを己が身心より推測してよく考究せば、理は一つにして二あるにあらず。唯すべての形状が異なり居るにすぎざれば、その異なりたる有様を詳細認識するの必要もなく、一理より一理を追ひ求めて其によって進みなば、すべては明らかとなるなり。広きことを聞きて心を八方に十方に廻らさば、中心の度を失ひて迷ふなり。故に広きも高きも事実は聞くの要なく見るの要もあらざるなり。
唯一路を迷はざるに不如と考へて、すべてを己が身心にひき比べて、一つの基礎的尺度を作り、其尺度を次第次第に延長して測り進まば、軈ては其尺度によって正しき道は得らるるなりと知るべし。正しき尺度を測ると云ふは即ち信仰の力を延長せしめて、拝みの法によって、その距離を測定なしつつ進まば可ならん。その延び行く尺度を迷はざるところに従ひ導くは我等の任務なれば、汝等が信仰の力を強くする毎に延び行く方向を迷はせざるやぅ案内するは我等の任務として、使命せられたるが故に汝等を誤ちたる処に到らしめざるやぅ努力し居ると知らば可なり。

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