未知日記霊話集千六百十五回  帰途案内記 NO 34 信仰に於て垢づかざる底の信仰なるが故に、是が肉体に迄及び居ることに心附かば、垢づかぬ信仰とは那辺にありやも自づと察することを得るならん セイキョウ貴尊講義


未知日記 第十巻 帰途案内記       
巻の一
大序の巻 
NO 34
セイキョウ貴尊 講述

                    
 信仰の度を強うして智慧を磨き居らば汚れは附着するものにあらず。故に汚れに染まざる底の信仰ならでは、正しき信とは云ひ難し。自然に順応して自然に同化なし居らば汚れは附着するものにあらず。汚れの附着するは自然に逆行するが故なり。斯く語らば世人は云ふならん。我等日々自然のままに世をすごし居らば肉体は垢づきて汚れのみ多くなるにてはあらざるか。是を日々除垢せしむるによってこそ清くなるにてはあらざるか。自然に育ち居らば斯くの如く垢づく垢をおとすは不自然ならずやと理窟を考ふる人も多からん。
汝等斯る理窟を聞きて尤もと考ふることはあらざるべし。斯る考へをおこす人は、正しき自然に順じ居るにてはあらざる故なり。汝等の世界を汚界と称へ居るはここなり。所謂汚界に育ちて垢づくこと勿れと云ふことを教へたるは、即ち泥中の蓮の譬喩ならん。よって此理窟に対して解決の説明はあたへざるべし。云はずもがな理にあらざるが故なり。又我、語らずとも世人はかかる愚言は取り上げざるべし。円海が語りたる彼の友泰岳と云へる愚者が日々衣を洗ひ肉体をきよめ居ると云ふにても、世人は既に承知し居る筈なり。信仰に於て垢づかざる底の信仰なるが故に、是が肉体に迄及び居ることに心附かば、垢づかぬ信仰とは那辺にありやも自づと察することを得るならん。

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