未知日記霊話集千六百十四回  帰途案内記 NO 33 如何なる穢れ多き所に生活すとも、その汚れに染まざる底の信仰にあらざざれば、魂は傷く。傷かば汚れは染みて脱落せしむることは容易の業にあらず。魂に信と云ふ穢れざる衣を纏はしめて、常に清浄化なし居らば、魂は安らかならん セイキョウ貴尊講義

未知日記 第十巻 帰途案内記       
巻の一
大序の巻 
NO 33
セイキョウ貴尊 講述

                    
 我、先に語りをきたる大悪ひるがへせば大善となると説きたり。又信ぜんと欲せば疑ひを強くせよとも語りたり。大悪とはさびたる玉の如く、そのさびが一時に脱落すれば、却て明玉を放つと同様にて変化の度著しきを見るならん。疑ひとは矢張り錆なり。其錆を丹念に洗ひ落さばきはだつてその箇所が清く見ゆるならん。故に大悪は大善となり、疑ひは信と化するの理も頷かるるならん。
 汝等凡てを明らめんとなすとも余りに範囲は広くして、是をきはめ尽すことは難し。ことに当る毎に疑ひは生ずるならん。ことに当ると云ふは、信に疑ひと云ふ穢れの附着するが故なり。されば本来は信なり。この信に垢をつけざれば疑ひはあらざる理も察せられるならん。泥中の蓮と教へ居る宗教者の言葉も或は是等を意味するならん。如何なる穢れ多き所に生活すとも、その汚れに染まざる底の信仰にあらざざれば、魂は傷く。傷かば汚れは染みて脱落せしむることは容易の業にあらず。魂に信と云ふ穢れざる衣を纏はしめて、常に清浄化なし居らば、魂は安らかならん。是を泥中の蓮と宗教者が説き居るならんと、我等は思ふが、世人の考へは如何あらん。其は別としてもし世人が世の中のことに対して己に認知することの至難なる場合は、是に徒らに智慧をはたらかすることなく、他に心を向けよ。然して己の智慧が磨かれて汚れに染まざる底に至らば、其時に至って以前の疑ひを晴らすことに方向をむけなば、以前の迷ひは明らかに解決することを得るなり。
 例へばここに汚れ多き衣ありて、如何に洗ふとも脱落せざる底のものあらば、其に心奪はれて強いて垢を取らんとせば、却てその衣を破損せしめて果は捨つるの余儀なきに至らん。されどその衣をしばし洗ふを止めて、先づその汚れの脱落せしむる方法を考案し、何かの薬品にて是を清除することを工夫して、後に是を洗はば、衣の破損を免かれて清らかに清除することを得ん。すべての理をこの例によって工夫せば錯誤は少なくならん。

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