未知日記霊話集千六百五回  帰途案内記 NO 24 人間の種子を蒔きて人の実を結ばするにあらざれば運命開拓とはなり難し。人間の種子より人の実を結ばせ、人の種子より仏の実を結ばすことによってこそ、進歩発達は得らるるなり。是を運命開拓と云ふ セイキョウ貴尊講義

未知日記 第十巻 帰途案内記       
巻の一
大序の巻 
NO 24
セイキョウ貴尊 講述

                    
 余事はとにかく世人の一生の行動を観望するに、即ち本末を払ひて空となし、又本末を出現せしめて空となす方法を繰り返へし居るのみにて、進歩発達の道を択ばんとはせず空しき一生を送り居ることに気づかざるや。朝におきて夕に眠る、これ一日の本末なるべし。是を幾年か繰り返して果は一生の本末を空として生存なし居るにすぎず。例へば春に籾を蒔き秋に稔らせてこれを収穫し、又来年再来年と同じ事を繰り返し居るは、即ち本末をすごして更に同様の事を繰り返へし居るが故に、土はやせて次第に収穫は減少し、果は籾を蒔きても藁にて終る結果となる。この種の事より凡てを考究し見よ。朝に起きて夕に眠る、是本末なるべし。その本末を幾年繰り返へす間に肉体は減退して果は死するに到る。是を因果の法則と云ふ。されば運命開拓とはかかることのみ繰り返へし居りては、一生を如何に長くすとも末路の正しき結果を見ることは至難なるべし。人間は人間なりとして終るならば所謂本末を払ひたるに等し。人間の種子を蒔きて人間の実を結ばすれば是は人間の本末を過したるにて、是を払へば人間としての稔りにすぎざるなり。斯る事にては聊かも向上することのなり難きは火を賭るよりも明らかなり。因果の道理を正しく認識せば運命開拓はなし得らるることも察せらるるならん。人間の種子を蒔きて人の実を結ばするにあらざれば運命開拓とはなり難し。人間の種子より人の実を結ばせ、人の種子より仏の実を結ばすことによってこそ、進歩発達は得らるるなり。是を運命開拓と云ふ。斯くせざれば向上発達は望まれざる事は云ふ迄もなし。向上発達すればこそ天界の高きも高からず、広きも亦広からざる底の進歩は得らるることに意を用いざるべからず。運命開拓なさんが為には智慧を磨き、心を磨き、肉体を育てて、世の中の人類をして進まするにあらざれば、世界は向上発達はなり難きことも推してさとる事を得るならん。
 運命開拓せんが為の方法として、先づ大切なることは、慈悲慈愛の心に化せしむる修養をはじめに修行しおくにあらざれば、一切衆生を渡すことはなりがたし。何となれば慈悲慈愛に対して如何なるものと雖も、是に向くる刃はなかるべし。是に向くる刃なければ争ひは起らざる道理あらん。斯くして先づ平和を計り、然して共に共に手を携へて進歩するにあらざればすべては救はれざるべし。

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