未知日記霊話集千六百四回  帰途案内記 NO 23 もし彼等にして正しき愛、正しき慈悲の心にて理論を交換なすならば、斯る醜き争ひは併発するものにあらず。故に大切なる事は慈悲と愛なりと云ふなり。暴力によって正しきものを虐げんとか、或は正しからざるものを屈服せしめんなどとは是愛にあらず。又慈悲にもあらざるなり。慈悲と愛は正不正に不拘是を化せしむることを得る大なる力あるによつて、人はこの力を得んがために修養修行の必要に迫らるることに深く意を用いざるべからず セイキョウ貴尊講義

未知日記 第十巻 帰途案内記       
巻の一
大序の巻 
NO 23
セイキョウ貴尊 講述

                    
 世人は平和を口に称へ居れど其は慈悲の心愛の心を有せざるが故に、口先ばかり平和にて是を事実に移すことをなし居らざる事を我等は知る。例へば理論を交換することに於てすら是を討論と名づけ居るにてはあらざるか。討論とは争ふ意味にてはあらざるかと我等は思ふが如何 ! 理論を交換して智識を向上せしむる道を計るにすら討論と名づくるは、我等には合点なし難し。さればこそ議会に於てすら討論の結果が、暴力に迄及ぶ結果を誘発して、その混乱を無智の国民に迄及ぼす如きは、平和を口にする者のなし得ざるものなるに不拘、彼等に云はしむれば討論し暴力に訴ふる迄、国を愛するが故に否平和を愛するが故にこそ、かかる暴挙に出で居るなりと語り居るを聞く。これ愛の力慈悲の力の具はらざるが故に、かかる身勝手なる理窟をならべて手柄顔をなし居る如きは笑止とや云はん。もし彼等にして正しき愛、正しき慈悲の心にて理論を交換なすならば、斯る醜き争ひは併発するものにあらず。故に大切なる事は慈悲と愛なりと云ふなり。暴力によって正しきものを虐げんとか、或は正しからざるものを屈服せしめんなどとは是愛にあらず。又慈悲にもあらざるなり。慈悲と愛は正不正に不拘是を化せしむることを得る大なる力あるによつて、人はこの力を得んがために修養修行の必要に迫らるることに深く意を用いざるべからず。
 ここに一例をあぐれば甲乙二人が一つの山の頂上をきはめんとして両者意見一致せず、甲は右して登らんと云ひ、乙は左して登らんと仮定して考へ見よ。甲の曰く右せば却て近し。されば我右せんと。乙曰く左せば遠く見ゆれど却て安全ならん。よって我は左すと。この両者が真に慈悲慈愛の心にて多くの人を安らかに登らしめんとの心より頂上をきはめんとするならば、彼等二人は互に語りあひて争はず相方に別れて頂上をきはめ、然して安らからに登りたる者の一方に同意して、新にその道を広くするは是愛の力慈悲のあらはれと化す。然るにはじめ慈悲慈愛の心なかりせば相方は争いて、よく一方の勝利者に対し己の手をかすことすらなさざるべし。是譬喩としては拙きものなれど、よく味はひて考へに移されんことを望む。世の中の凡ての理窟はみなこの種の如きこと多からんと我等は考ふるものなり。世人は理屈にのみ囚はれて実行に伴はざることを論議して果は喧嘩に迄及ぶ如きことを常になし居るにてはあらざるかと思ふが故なり。

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