覚者慈音408

テッシン講録 未知日記第七巻



拝む心の成就したる結果を知るには     其一
                     その10
             
                    第三の巻
                ミキョウ貴尊講述


 
 世の中の信仰者に此幻影を追慕する婦人は多し。婦人は肉体神経は男子に比して鋭敏なるにより、錯覚作用の顕著なるによるなり。故に神懸かりとか、霊感など云ふは婦人に多きも此理なりと知るべし。所謂婦人は引力性に富みたれば集愧(しゅうき)の力は強く、男子は圧力性に富みたれば発射の力強くして物を取り入るるは容易ならざるなり。故に男子は分別にたけ、女子は分別うすきによる。
 余事は別として幻影錯覚は肉体神経の現象と知りて斯る時には心を止めず、ひたすら行にいそしみ居らば幻影は消滅して影を止めざるべし。然して唯何となく爽快を感じて腹立ちも悲しみも起らず。心に感ずるは生の喜びとなりて不平不満の念も失せ歓喜に胸は踊るべし。然して真実の有難味、真実の勿体なさ尊さ忝なさを覚えて感謝とは斯る境地なるかと悟るに至るなり。然る時初めて霊の力は現はれ来るにより、すべては今迄体験せざりし事が鏡に映ぜる如く明確に映り来る。是こそ幻影にもあらず、錯覚にもあらず。肉耳肉眼に感ずるにあらずして、心耳心眼に感じ来る現象なりと知るべし。世人は他より己が直接に受けたる行為は感謝すれど、間接に受け入れ居る行為には感謝なし居らざるならん。一人の親切は喜べど、万人の親切を受け居りて喜びとはせざるなり。然るに霊的信仰によらば万人の親切は一人より受くが如く感ぜられて感謝せずには居られざるなり。
 一椀の飯にも天の徳、地の徳、太陽の徳、籾の徳、水の徳、農夫の徳、牛の徳、害虫をついばむ小鳥の徳、米となす迄の人の徳、是を精米する機械の徳等々算ふれば其より其とはてしなき徳に感謝し、有難し忝なし、勿体なし尊しとの念は自づと 湧き出でて、唯感謝するを真心と化するならば、人を妬み、世を呪ふ等の思ひは露程も生ずるものにあらず。斯くなり行けばすべてを愛し、すべてに情を施し慈悲の心に満たされて世の安らかならん心と変ずべし。斯くならば世の中は安泰にして如何なる場合にも争ひの生ずべき筈はなからん。ここに至って平和の世界は出現して人類の争闘もなく、相寄り相助くるに至らば生きる喜悦を味はひ得られん。
 宗教の最も眼目として修行する処は、何れの宗派を問はず祈りを主となし居る事は、誰も知るところ、朝夕礼拝なし居る祈りとは、即ちおろがみ拝むなるべし。是何故なるかをよくよく思惟し見るべし。私(われ)も世に在りし頃の行とは、帰するところ拝みのみなりしとも云ひ得らるるなり。人間は感情の動物とさへ云はれ居るなり。いささかの事を憤りては喧嘩口論をなし、果は流血の惨事を惹起すことすらあるなり。もし其が拝む心を起さば忽ちその怒る心は柔らぎて哀を感ずるに至る。よし憐む心にならずとも喧嘩口論などはなさざるならん。斯くては流血の惨事などあるべき事もなし。わづかにても拝みの力は斯くも顕著なり。祈祷とかを迷信妄信として智識者は等閑に附し居れど、そは一を知りて二を知らざる故なり。祈りとは正しきと正からざるとあり。されば道理を明白にしたる上ならでは祈りの効果は現はれざるなり。そは兎に角、祈りとは帰するところ、神を目標として拝む法なりと云ふに他ならず。是等は即ち真の神を信じたる人にしてなさるるならん。神を知ると知らざるに不拘拝む心は既に慈悲なり。たとえ神の有無を知らずとも慈悲の心は通ずべし。
 ここに人ありて不正の行為をなし居ることを聞きて、彼の為に祈りて其非を改めしめんとなし居る事を知らば如何なる思ひを抱くや。無用のおせっかいとして嘲るか。其言葉は表面にして内心には何か動揺を来たさん。たとえ不用のお節介と言はれても慈悲の心は決して其祈りを捨てしめず行はしめん。其が度重りて彼が耳に入るならば、彼の動揺したる心は次第に頭をもたげ、或は怒りとなり、或は誹謗となり行き、遂には其等が消滅して、遂に自覚反省して其非を改むるに至らん。是等の道理より思惟せば明白なる如く祈りの現はれは神の力にあらずして祈りする人の念の力、霊の力なることを推知するを得たるならん。されば拝む心を進むれば霊の力は表面に現はれ来りて、其人の心に映ずることの理も察するを得るならん。霊の現はれて初めて自分の個性自分の使命の何たるかを知るなり。其らについて尚詳細に語らんと思へど、紙面を慮って下巻に詳しく語る事として上巻を閉づべし。


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