覚者慈音410    神と共に生活せよ   大法輪より

 神と共に生活せよ


 単行本「神と共に生活せよ」は大法輪閣から今から二七年前に出版された未知日記のダイジェスト版です。編集者は谷口さんと云う方です。谷口さんの未知日記の紹介文が本の末尾に掲載されていますのでそれを紹介します。
「我は良医の如し。病を知りて薬を服すると服せざるとは医の咎にあらず」と語りたるにてはあらざるか。仏教信者は釈迦と云ふ偉大な人格者に対してすら服するもあり、服せざるもあることを釈迦は余儀なしとして、斯かる言葉を残したるにてはあらざるか。釈迦にして斯くの如し。まして慈音に於てをや」と未知日記には記されている。
確かに、慈音師は盲人であり、五尺に足りない小男で、しかも動脈硬化症のため、他人の手を借りなければ身体の自由も意の如くならない、骨とかわだらけの見る影もない老爺であったそうだが、その心は美しく慈悲心に富んでいたという。
しかしながら、貴尊方の、ただ真実を語るだけとの自負は、
宗教者は神を知らずして、神を語る。我等は神を知りて、神を語るという表現にも窺える。したがって「信じたてまつらんとも、またすてんとも、面々の御はからひなり」で、共感できれば実践していただき、納得できなければ信じる必要もない。
「一巻の書物を読むとき、その眼目となるべきもののみ取り入れて養分となし居らば、それにて可なり。諸子はこの書を捨つることなかれ。唯、その中より何物かを発見せんと努められよ。汝等は、いまだ覚らずとも、この法を多くの人に教えて、ともに共に悟りの妙味を味はわしめよ。一人にても多くの人を導けよと我は奨むるなり」

との言葉を励みに抜粋させていただいたが、もとより編者には、その真髄を紹介できる力はない。全十一巻にもなる未知日記の十分の一も、難しくて読みこなせなかった。これまで紹介したのは、数学でいえば初歩的な掛け算割り算で、微分積分などの方程式は、とても歯が立たなかったということである。
 しかも大霊界の八大門を終えたなら、唯一筋に神の方向に邁進するため、さらに第九第十の門が授けられるとのことで、その時に守るべきこととして、
己の位地を誇りて表面をつくろい、高慢なる心が起こり来る場合は、これを早く復して、高ぶりの思いは決して生ぜしむることなかれ」とか、「他に迷惑を及ぼす如き振舞いを慎めよ。もし汝に食を与へくれる人なければ、喰ふにも及ぶまじ。餓ゆればとて、己より食を求むることなかれ
行のために苦しくとも決して悲鳴をあぐることなかれ
などと注意を与えている。私たちは現在を既知とし、未来を未知として歩を続けているわけだが、全宇宙を創造されている神には、未知というものはない。「未知日記とは未知を既知に変える」こと、すなわち「神を知る」「神を我ものとする」ことである。
  月刊誌「大法輪 」にこの「神と共に生活せよ」が(平成二年三月号より)掲載されてから、「心より感動し、涙が出て仕方がありません」とか「何十年と探し求めていた処世の指針を得た感じがします」など営業や編集部に、読者からの数多くの手紙や電話を頂戴した。これらの方々の励ましによって、当初四回の予定を十七回まで延長され、そして単行本化されることにもなったといえる。
 しかし原典を読んでみようと取り寄せてみたものの、「とても難しくて」という感想が多かった。未知日記を取り次いでおられ、こだま会の一員でもある松尾東平氏は、それについて「心では難しいと感じていても、魂には通じて居ります。幾度も幾度も幾度も、繰り返し繰り返し繰り返し、御読み下さるよう。想像もつかない無限の大きな智慧を戴いて居る訳ですから」と仰っている。全くその通りで、二度三度眼を通しているうちに、じわっと浸み込んでくるものがある。
本当なら貴尊方のそれぞれの説き方には個性があり、表現も異なるので、別々に紹介しなければならないのだが、本書では同一人物が語っているように纏めてしまったので、これでよかったのだろうかという反省もある。おそらく編者が違えばかなり印象の異なるものとなっただろう。

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