覚者慈音406

テッシン講録 未知日記第七巻


拝む行をする第二の心得          其二
                その7
             
                第三の巻
                ミキョウ貴尊講述


 事実と理論とは相伴はぬものなり。されば理に合ふとも実行して結果を確かむる迄は、その理論は完全とは云ひ難し。されば事を聞きては直ちに実行に移して結果を確めて初めて信ずることを得るなり。我等は世人に語る処の事柄はすべて行ひて研究ずみの事なれば疑はずして行ふべし。一般世間の親の子を愛するは肉体本位の愛なるにより、死別すればその嘆きは容易に消滅せず。子を持たぬ人にして有識者はいささか精神的愛なるにより、養ひ児と死別するも諦めも速なり。もとより己は肉体をいためしにあらざれば肉体愛情なくして精神愛のみにても一方的のみにては、何れも一得一失はまぬがれず。されど
霊的の愛は絶対なるにより、たとひ愛子と決別すとも決して常人の如く悲むにあらざるなり。何となれば死別は絶対になきことを知るによってなり。
 慈音を見るべし。彼は七〇歳にして父母とともにあることを自覚しある故に、彼は常に喜びあるなり。霊的信仰に入るには拝む心を養へよと教ゆるは、此霊に謁見んための方法として行ずるなり。
 先に語りし泰岳は幼児の頃より何かは知らず拝し居りしと云へるは、彼は神とか仏とかを拝し居りしにはあらずして唯自づと湧き出づる心より拝み居りしなり。然してその拝みより霊は働き大なる悟りを多くの人に与へたり。我等彼によって化せられし事は常に彼に感謝なし居れり。彼は何をたづねられても私は知らずとのみ答ふるに、多くの徒弟は常に彼の傍らを去らず、常に彼と共に居らば彼の霊に同化せられて知らず知らずの裡に自覚の道は開らかれる故なり。霊の力は斯くも大なり。されば行ぜんと志す人は霊を知る指導者と共にありて教へをうけずとも唯一時、半時にても傍らに在らんことを願ふべし。然して其人の傍に在らば彼の言葉を聞かずとも自づと悟ることを得るなり。
 拝むことは心を清むる方法にして善悪邪正と云ふ垢を除去するに適す。即ち洗ひて白紙となす薬物に等し。ここに心得べきは宗教上の礼拝が、多年の伝統的習慣となり居りて、其が一般知識階級者、或は宗教信者の人は拝むと云ふことを、何か一種特別の希願とか、或は縁起とかの一種として他人前を憚りて実行せざる人も少なからざるべし。故に是等の心の人は拝むと云ふに対しては、二心となるによって信ずる力は上調子となる。二心は信仰にあらず。信仰とは二心を一心に集めて初めて信仰は得られ、其一心が向上して此処に初めて信仰の徳は現はる。他人前を憚りて拝むことのなし難きは恥づかしきと云ふ心ならん。其は肉体観念なりと知るべし。我の勧むる教へは心にて拝めよと云ふなり。手を合わせ頭を地にすりつくる拝みにも、肉体的の拝みと精神拝と霊的拝の三種あり。肉体的の拝にて手を合わせ、低頭するは欲望あり。又つくり心にて斯る態度をなして我は信仰者なりと、仰々しく他を拝ます等も亦肉体的なり。精神信仰にて他人前を憚らぬは斯くせざればと云ふ一種の感謝的行為なれば差支なし。霊的信仰にては他人前にても手を合わせ低頭する場合には何か必ず斯くせざればと云ふ止むに止まれぬ事柄ありて行ふにより斯る時は、不知不知のうちに行ふものなりと知るべし。故に行ずる人、最初の拝みは肉体より初まり、更に進んで精神拝となり、向上発達して遂には霊的拝となり、嘗て知らざる霊と同化するに至るなり。
 


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