覚者慈音405

テッシン講録 未知日記第七巻


拝む行をする第二の心得          其二
                その6
             
                第三の巻
                ミキョウ貴尊講述


 拝む修行には先づ或一定の心掛けなかるべからず。人は何かの希望なくしては行ずるは至難なるべし。その希望は如何なる希望を抱かば可ならんか。そは前にも述べたれど天分を知らんための希望を抱くは云ふ迄もなし。されど普通人には何か或一種の奇跡あらんことを願ふ望みを抱くは多かるべし。故に斯る人の為に今一度繰り返し重複するを承知にて再度説明すべし。拝む心の第二の心構へとしては常住坐臥、己に新しき人ひきもきらず来りて礼儀を交はし居るとの思ひを忘れずして行ふべし。神を拝せんとか、己の霊を求めんなどとの思ひを貯へて行ふべからず。神を拝せんとか、霊に見えんとかの心にて行はば錯覚に陥りて幻影を誘導して思はぬ不覚を来す恐れあればなり。されば修行中もし奇跡的な変調を身に感ずる事ありとも決して是に囚る事なかれ。もしこの奇跡に囚はるれば錯覚を生じて行の妨害となるによってなり。唯何となく心より有難し忝なし勿体なしとの念生じ来らば是正しく行はれ居るしるしなりと信じて、其すべてを引き伸すべし。何事を他人より聞かさるるとも有難き教訓と感謝する心が湧き出でて拝む姿に変ずるに至らば可なり。
 例へば人の不幸を聞く時、その人の身を憐む心より拝むならば其にてよし。其人の冥福を祈らんと神を拝するに及ばず。其は無為なり。何となれば心の底より神を知るものにして初めて効果あれど、神を知らざるものにして斯る願ひは偽はりとなるのみならず、行を妨ぐる故なり。其人の受けたる禍は何か神の思し召しならんかとの事を考慮に入れざるべからず。故に唯拝めばよし。世人は神を求めずとも神は世人を捨て給はず。されど世人は神の法則を知らずして誤たる行動をなすによって、傷くは神の捨てたるにてはあらず。又神は罰を与へたるにてもあらず、恰も嬰児が縁側に這ひ出でて落ちたると同様なりと思はば可なり。故に神の法則を知れる貴尊方の教へを固く守りて、此法則に従はば決してすべてを捨て給はざる事疑ひなし。神を知らんがためには先づ己自らが有する肉体の父母なる霊に、謁見ゆるにあらざれば神の存在を知ることあたはず。此霊に謁見ゆる方法として拝む心を起し、然して有難し忝なし、勿体なしと云ふ念、情心(なさけごころ)、慈悲の念に変化し行くなり。世人が思へる愛、情、慈悲の心はすべて肉体愛、肉体情、肉体の慈悲にして霊的愛、霊的情、霊的慈悲とは全くその趣を異にすと知るべし。子を持つ親の心と、子を持ちしことなき人の心とは相違あることは一般世人の知る処なり。


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