覚者慈音403

テッシン講録 未知日記第七巻





仙人の修行  円海大師の霊的修行
                その4
             
                第三の巻
                ミキョウ貴尊講述


   積極的方法と消極的方法



 霊的信仰に入るには積極消極の二道あり。前に貴尊方が教へられたる法の多くは消極的にやや近し。今我の語らんとなす方法は積極的なりと知るべし。貴尊方の教へは智識の具備りて実に尤も感ずる人に於て行ふ法なれども、現在の如く混濁したる日本人を育成指導なさんと計らば、到底消極的方法に頼み居りては人心を柔らぐるに時間を要すべし。故に私は憂慮のあまり、教主に斯くと告げて許可を受け、一方慈音を促して未信仰者を集めて、私は講演して初心者の為を計らんことを誓ひたり。されば積極的の方法は従来の方法とは異なりいささか苦痛を伴ふべけれど屈せず、不撓修行せば必ず成就疑ひなきことを保証すべし。
 常識に富みたる人ならば消極的修養によって安全に苦まずして、大悟徹底するを得れども、現今の日本人の如く、糸の切れたる凧の如き人間にありては積極的方法に依って、此糸を結び止めて飛散せしめざるより喰ひ止めずば、再起再建はなすこと難かるべし。


  行ずる者の心得 



 人には希望なくしては修行せんとの観念は生ずるものにあらず。碁将棋の如き遊戯に於てすら夜を徹して遊び翌日の働きに支障を来たすにも不拘傍目もふらず娯しむならずや。その趣味を有せざる三者の立場より観望する時は狂気の如く思はるるに、当事者は平然と、その徹夜も余りに労苦とは感ぜざるなり。碁将棋は帰する処一方は勝ち一方は負くるのみ。考へ方によっては実に無味乾燥ものなるべし。然るに斯るものにすら労苦を惜しまず修行するにてはあらずや。是等の苦行によって人道を全ぅすることを得るならば世に修行の必要はあらずして楽みつつ人道の全きを得ん。されど人道をわたるには斯る浅薄なるものによって到達するものにあらず。斯道の専門家は其によって修養せらるる如く説き居れど然らず。されば碁将棋を学ぶ者の希望は石駒の運用を深くきはめて、他人より業を進めて勝ち度しとの希望に他ならねば浅薄なる望みと、空しき光陰を費消するにすぎざるならん。斯る事にすらなさんと思へば行ひ得るに、天性の任務を行ふにはいささかの困苦に堪え難き事やある。是は希望と云ふ目的あらざるにより行ひ難きなり。碁将棋の如く実在的のものは労苦を娯みとして励むなり。されど精神的の如く空なるものを修めんとするには、拠る所なきにより中途にて挫折すること多くして、果は放棄するに至るは一般人の心理状態なり。
 すべて人は表面に現はるる事に対しては、努力を惜まねど内面に潜在する事は無関心なるものなり。是は何故ぞと仔細に検討し見るべし。所謂積極的には乗り出し、縁の下の力持ちは好まず、帰する処は己の徳を表面に知らしめんとなす名誉欲なるべし。是即ち肉体信仰に他ならざるなり。縁の下の力持ちは神に知らしむる名誉欲にして、是精神信仰に帰するなり。故に人間はたとえ表面的にもあれ、或は内面的にもあれ、人間として生存しある以上、何か希望をなくしては生き得られるものにあらず。されば老人となりて希望尽くれば死に度しなど口にするなり。事実はとにかく死にたしと口にするは希望を失ひたるにより、口にする言葉なるべし。されば修行せんと志す人は何か一つの希望を持たざるべからず。此希望を求むるは人々の心任せなれど、私の望むところは世人は各自有する心と己自らは何なるかを知ることなりと勧むるなり。いやしくも人と生れて人を知らず、己自らの個性天分すら知らずして神を知らんと計るとも、そは木によりて魚を求めんとするに等し。されば先づ個性の何たるを認識せば、神の威徳は自づと判明するならん。故に其修行に専念すべきことを奨むるなり。



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