覚者慈音402

テッシン講録 未知日記第七巻

霊的信仰の大意


仙人の修行  円海大師の霊的修行
                その3
             
                第三の巻
                ミキョウ貴尊講述


 霊的信仰とは霊になりきれよと云ふ事なり。前にも語りし如く、信仰とは仰ぎ信ずるの意味、又進み行くの意味真を行ふの意味を有するなり。物を信じて行はずば信仰にあらず。行ひてその結果を見て初めて信仰の徳を知る。悟りを知って覚らずば其は即ち覚りにあらざるに等し。されば真の信仰とは何を信じ、又何を求むればよきかと云ふに、我等一言に答ふならば人は人の道を信ぜよと答ふるのみ。肉体信仰は米を作らんとして藁を作るに等しと、貴尊が説かれたる如くなり。藁に重点ををく農夫やある。されば米ならざるべからず。米とは人の有する結実なるべし。このみのりとは何なるかを考ふれば自づと察するを得るならん。即ちみのらすとは天より受けし使命、天より定められたる分野に従ひて魂の智慧を結ばしめて初めて全うするなり。世人の肉体は父母によって保護せられ完全に発育する迄は、唯父母を頼みとし、長じて肉体整ふに従ひて良人を頼み妻を頼み、老いては子をたのむ。是肉体のたのみなるべし。精神方面に於てもいささか是に類する関係あれども、多くは肉体に帰せしむる事の多くして、魂魄を忘れがちとなること多し。故に霊的信仰ならでは身心共に全きを得ざるなり。もとより泰岳の如く霊を中心におき身心を神によって結ばしむる如きの行為は凡夫の想像もなしあたはざる処なれど、一般世人はせめて魂を霊と肉体の中間にをきて世をわたる修行せば、決して危険に遭遇する事はあらざるべし。
 父母は赤子に慈愛を送れど、赤子は是を知らざる如く、霊は魂魄を愛すれど、魂魄は是を知らざるなり。故に霊をたのまず、唯肉体にのみ囚はるるなり。肉体の父母とは魂魄なれば、子煩悩なる魂魄は肉体の要求するが儘に、ことの善悪を問はず聞き届け居るなり。然して霊なる親を頼まず思ひ余って或は怒り、或は悲しみ、或は怨み、或は世を呪ひて頼み難きは人心等と世を厭ひ、あたら生命を空しく終る等の愚をなして、死後に迄怨み憎みの念を残して、宙にさ迷ふ亡霊の数多きを我等は知るによって憫を感ずるなり。霊を中心として魂魄を支配せしむれば魂魄は肉体を監督するに依って何一つとして不満を感ずることなし。又魂魄を中心として霊を知らば、霊は魂魄の為に物を教へて迷はしむることはあらざるなり。この信仰を知らずして唯肉体本位の信仰或は精神信仰より空しく光陰を費してあぶ蜂取らずの生涯を終る人は少なからず。されば是等迷へる人の為に、何とか完全に把握すべき方法はあらざるかと云ふに決して然らず。法はあり。修養修行の術はあるなり。されば世人は私の詞を疑はずして修得せんことを奨むるなり。世人は一つの業を伝授せらるることも直ちに行ふことを得ざるならん。例へば婦人に於て日々飯を炊きながら同じ加減のものは得られず、今日はやはらすぎたり。今日はかたすぎたり。或はこがしたりと云ふにはあらざるか。五年十年と研究なしてすら斯くの如し。まして困難なる信仰に於てをや。



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