未知日記霊話集  テツシン講録  初心者の修行其二 インショウ、ミキョウ貴尊講義

テッシン講録 未知日記第七巻 テツシン講録


初心者の修行          其一
                その5
             
                第三の巻
                ミキョウ貴尊講述


 一つの希望を起して是を発見する方法として修行するは、先づ第一に拝むことなり。是は神を拝むにあらず。又己の希望を達せんが為の祈り心にて拝むにあらず。唯無意識に訳もなく拝むなり。朝眼醒れば拝むべし。顔を洗ふとき、洗ひ終りたる時拝むべし。手を合せ頭を下ぐるに及ばず。唯拝む心になればよし。食事の前後家族と顔を合はす時、仕事につく時、仕事の半途、仕事の終りたる時、寝につく時、夢の醒めたる時、腹たたしき時、悲しき時、楽き時、嬉き時に至る迄、即ち常住座臥断間なく心の底より拝む練習を忘れず行ふべし。是は決して神を拝むと云ふにあらず。唯空を拝し、目標を定めて拝するあらずと知るべし。
 是に対する理由は拝む心、拝みたき心を養ふ時、其結果は凡ての者を満足せしむるに益す。他力宗の念仏せよと勧むるは此理を応用したる方法にして、念仏する時は智慧を働かせず、無条件に念仏せよと教へあるなり。故に世人は唯拝む修行を無条件に行ひ居らば、己の個性、己の分限は明白に知る事を得るなり。例へば人は怒る時、拝むと云ふ心生ずれば決して粗暴の振舞をなすに至らず、腹たつ心は消滅すべし。斯る些細の事にすら拝む心の働きの強きを知るならん。況や是を持続せば其験の顕著なるは論より証拠、行ひて試し見るべし。
 一つの趣味の如く考へて遊戯的に走る事なく、或は変調を身に感ずるならんかなどの考へに傾くことなきよぅ慎みて行ずべきなり。然して時を経るに従ひて自づと不知不識の裡に、何となく感謝の念の生じ来らば、行は半ば達せられしと覚りて一層努力して行ぜば、何事も勿体なしと云ふ念は新しく生れ来るべし。此期に到達することを得ば九分目的は達せられたるなり。世人は初めて面会したる人に対して相互に礼を厚ぅするならん。見知れる人と朝夕顔を合せて礼を交換す。是は即ち拝む心と同様と知るべし。改まる心もみな拝む心に相当す。故に礼とは拝む心より出でたる現はれなりと知りて可ならん。所謂礼は霊に通ず。故に挨拶を交換するは霊を通はする方法にして、人種は如何に異なるとも人間の霊には異なることなきを示めせるなり。礼を知らざるものにして霊を知ることは難かるべし。

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