覚者慈音397

未知日記 第十巻  帰途案内記
最終の巻



                      その51
二流界、仮称霊空界の人類について                          
                  セイキヨウ貴尊 講述


 先にも語りし如く二流界の人間は眠りもやらず憩ひもやらず、唯働きにいそしみ居ると云ふに対していささか語りをくの要あり。元来世人の肉体はいささか働けば直ちに疲労を感ず。其は限度あるが故なり。生あれば死す。所謂生老病死の悩みあるによって限度を有す。生老病死の悩みなければ如何に働くとも又如何なることをなすとも疲労など感ずるものにあらず。二流界の人間ともなれば既に肉体はあるもなきも同様に、生老病死の悩みはあらざるが故に、如何に働きをなすとも何等苦痛を感ぜざるなり。故に眠る必要もなく又憩ふ要もあらざるなり。
 例へば世人の中に囲碁将棋を娯しむ人は眠らずして徹夜する事すらあるならん。もし其が好まざる事をなす時眠らず夜を明かさば疲労を感ずるに不拘、好める事ならば夜を徹して尚あまりあらん。二流界の人は恰も其如く働きは娯しみにして、楽みは又働きとなり居るが故なり。生より生を娯むがゆえに、働きより働きへと楽は永続して尽きる事なく、即ち永久を楽みとして任務に服し居るなり。その任務こそ真の楽みとなり居るが故、宗教者の語る極楽世界を作り居るなり。斯ることはわづかの一事にすぎず。すべて物事をなしてならじと云ふことあらざるがゆえに、其より其へと楽みを重ねて尽きず。是がなしてならざる時は自づと苦みを伴ふならん。されど彼等には苦みと云ふことはあらざるなり。なさんとすればなり、意の如くすべては行ひ得る力そなはりあるによって、苦みと云ふこと一としてあらざるなり。下界に到らんとすれば忽ち下界に到り、帰らんとすれば忽ちもとに復す。真の自由とは是を云ふなり。全宇宙の大意を獲得したる人類なるが故に、正しき自然を応用して正しき自由を得たるものに於て、苦みと云ふものあるべき道理あらんや。世人の苦むは自然を知らず。自然に逆行するが故に苦みは自然に来る。不自然に入らば苦みを招くは是自然の理なるが故なり。自然に順応せば苦みなく、自然に逆行すれば、苦みを招くは是亦自然の道理なるが故なり。我等先に語りをきし五流界の伝説に、五色の土壌に種子を蒔くと云ふ話をなしおきたり。今是に対して詳細説明をなすの必要に迫られたれば簡単に語る事とせん。されば五色の土とは何かと云ふにことに対して、世人は唯訳もなく聞き居たるならん。又無智の人は如何なることの為に斯る例話を掲げしかすら知らざるべし。世人の世界に於て黒色人種、白色人種さては黄色人種など、人種に於て相違あるが故に、自尊心より身贔屓となりて己が持つ色に対して彼是論議して、人種に対して差別なし居るならん。斯る事のあるが故に我等は五色の伝説を語りたるなり。白き土に白き種子を蒔けば、白き実を結ぶとか、黄色に黄色の種子を蒔けば黄色の花を開らくとか語りしは是なり。最後に到って一個の種子が五色の具備あるによって、五色の土を集めて此種子を育つる時は、その種子が完全に育ちたりと云ふ結果を語りしは、即ち人種の色によって区別あるものにあらず。人種は改善すれば其姿が如何にとも変ぜらるるものなれど、魂と云ふに変りなきことを教へんとして、この例話を掲げおきしなり。









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