覚者慈音395

未知日記 第十巻  帰途案内記
最終の巻



                      その49
二流界、仮称霊空界の人類について                          
                  セイキヨウ貴尊 講述


 兎に角二流界ともならばすべては一体化せられて物事を行ふ。例へば愛と云ふ言葉に於てその愛の姿は世人の愛とは異なるなり。世人の愛は相対愛なるがゆえに、その裏面には憎しみを伴ふ。即ち陽性陰性の関係なるによって知らる。所謂憎しみは陽性を伴ひ、愛は陰性に化せらる。今陰性陽性と語りしは圧力を陽性と云ひ、引力を陰性と指したるなり。故に憎む心は圧力を伴ひ、愛する心は引力を誘ふ。然してこの両者が極点に達すれば即ち一体化す。
 例へば子を思ふ親の心は愛なりと。然して若し子が悪しき行為をなすならば、これを愛の心より改めしめんとて鞭打つにてはあらざるか。鞭打つは圧力にして是には憎しみを伴ふ。されど鞭打つ眼には愛の涙が宿り居るならん。泣いて鞭打つ、即ち引力と圧力の二つがこもごも交はりて行ふ結果、陰陽がここに頂点となりて現はれたるしるしなり。すべて世人の世界は引力と圧力が二つのそなへを持ち居るに依って、善悪の相違もあり。是が仏と鬼の両者となる。されど二流界の愛は一にして引力圧力の区別あらざるが故に、愛は真の愛にして憎むと云ふものの存在はあらざるなり。二流界のすべては皆この種のものにして対立することあらざるがゆえに、誤つと云ふもの一として生ぜざることは云ふ迄もなし。信仰の程度も亦かくの如し。疑ひなき絶対信なるが故に通ず。世人の信の通ぜざるは二者含有の信なるが故に通ぜざるなり。汝等、よくよく悟るべし。憎まざる愛を先づ考へよ。世人の言葉に「坊主憎くけりゃ袈裟」と云ふにてはあらざるか。憎しみを伴はざる愛、愛を伴はざる愛にあらざれば真の愛あらず。此意味は世人には解し難かるべし。愛を伴はざる愛、この愛こそ大愛なり。愛するがための愛にてはあらず。口にては絶対愛と云ふ言葉あれど、その絶対愛なるものが如何なるかを指すかと聞かれなば、是には明瞭なる答へをなすこと難からん。故に我等は世人に教ゆる処は憎しみを伴ふ愛を捨てよ。然らずば憎しみは如何にすとも離れざるが故なり。鬼を伴ふ仏をすてよ。然らずば鬼は離れざるなり。故に是を一言で云ふならば、世人の愛とか、仏とか、信仰とか、云ふ言葉の全部をすてずば、正しきものを把握することは難し。正しきものを得るにあらざれば二流界などの話を聞きても、己の修養の材料とはならざる故なり。ここに注意することあり。我、今語りし愛をすてよと云ひしは世人の考ふる愛にして、正しき愛をすてよと云ふにはあらざるなり。愛する心は世人にも有し居るによってなり。されどその愛は真実の愛にはあらざるが故に、すてよと教へたるなりと知るべし。


×

非ログインユーザーとして返信する

あと 2000文字

※は必須項目です。