覚者慈音394

未知日記第三巻



喜悦の巻       円海大師講述
喜心録(円海)



 慈音さん、儂は円海です。あんたも大分進まれたようで誠に嬉しく思ひます。せい出しなされや。へたばったり、尻込みせんようになあ。今が大事ですぞ。勇気を起して一踏張りぢゃ。
あんた程仕合はせな人は少ないぞな。次から次へと三人の教主さんの御恵みを受けるとは、何と云ふ喜ばしいことですか。其ばかりではありませんぞ。多くの修行者が十年も苦められて尚合点の行かぬことを、僅々三月で教へていただけるとは勿体ないことぢゃありませんか。勉強しなされや。
儂は教主さん方の御話を聞いてさすが偉大なお方ぢゃと思ひます。あんたも知ってるあの大般若経、あれだけ読んでも一日一冊づつ読むのは余程の苦労ぢゃ。其を読んだとして一年に七ヶ月、其で僅かに一切空とだけです。其れが僅少で空と云ふ原理から空の作用に至る迄教へられたあの講義、万巻の書物にもかへ難いあの教え、子供にも大人にも学者も智者も一般に通ずるあの言葉、さすがに凡界を離れた方だけに、儂は涙がこぼれます。慈音さん。粗末しなさんなよ。ところで、第一教主さんの仰せで、あんたを儂にも指導するように云はれますので、御手伝する役を致しました。日に五,六分間お話しますから、そのおつもりでお聞きなさい。今日は知らせに来た迄です。さようなら。



註  此の日は昭和十九年拾月四日なり。此時代には大師は肉体を有せられ、チベットの深山に住せられたるなり。  慈声




唯論議 無問答



                    円海大師講述




 唯是実行あるのみ。修行者が深山の道場に於て日々の難行苦行、他より傍観すれば狂気の沙汰と見るべし。然れども行ふ者は唯々服命して論議を許されず。行ぜざれば鞭を加へ、尚用いざれば厳として許さず下山せしむるは行者の則、毫も仮借せざるなり。
日を経、月を追ひ、年を重ねて行を修むるも、尚苦行は絶えず、継続又継続。何日はつべきと云ふ事なし。
されば人間の煩悩を払ふその苦や絶えず、その業や深し。行中半途にして道を捨てる者、或は行者の様を見て踵を返へす者、其数多きも誠にうべなるかなとの感にさへ囚はるる事すら屡々あるなり。斯る難行苦行せざれば道は得られざるか。煩悩消滅せざるを以ての故に、苦悶苦闘其様を見てはうたた憫然として涙、自ら催す。
されば彼等はなにを得、なにを求めんとなすや。岩石に身を抛ち、水中に身を凍らせて迄尚苦行を怠らず。身を捨て心を棄て生命を捨て、然して何をか得んとなすか。俗者は奇異の眼を向けん。然して行ずる者もその得る処のものを知らざるならん。煩悩の起こるも神の賜物より出で来る心の現象なるを敢て捨てんと計るが故に苦痛を伴ふ。所謂神より賜りたるものを神に返して、他に得がたきものを望む不自然の要求なるが故に、苦悶苦闘せざるべからずと考ふる者もあらん。誠に然り煩悩則菩提の教えもあればなり。
                         (昭和十九年壱拾月28日)



一度、身心うけて此徳を知らず、再び獣類に返らんことを考ふれば、光陰は空しくすべきにあらず。粉骨砕身以て神の恩恵に答へざるべからず。砲煙弾雨に身をさらして泰然自若たる兵士の姿や尊し。生死を超越すとは彼等の姿なり。学んで得る事は難く、事に処して始めてその境地を味ひ得るなり。教えをうけて行はざれば甲斐なし。読まざる書を積み重ぬるに等しく何の益かあらんや。然りと雖も教えを受くるは受けざるに勝る。
                         (昭和十九年十月二十九日)

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