覚者慈音30   坂井哲子先生の思いで



坂井哲子先生の思い出


もうだいぶん前に亡ったのですが、東京に坂井哲子と云うおばあちゃんがおられましてね。その方は戦前から毎年当地勝山市に来られました。来られると一週間くらいこの地に滞在され、いろいろ会員の方にお話をされたものでした。94歳で亡くなられたのですが、白髪で、声もとおりとても上品なお方でした。
母はいつも、若いときはそれはそれはホントにお綺麗であられたと、口癖のように云っておりました。
ご主人は大学教授であって、早くに他界され、その後、信仰の道に精進された方です。母は20代の頃から、その人と接触があったのです。ですからおよそ50年余りも懇意にさせて頂いたわけです。その方は日本神道を信仰されておられました。
その霊力たるものは本当に凄いものがありました。
先生が初めての土地に行くのにタクシーに乗り、運転手にそこを右、そして次の四つ角を左と指図し、とうとう最終目的地に着いてしまうわけですからね。運転手も自分の行ったことのない初めての土地へ行くわけですから、呆気にとられたそうです。
私の母方の祖先は石川県小松の出身だったのです。そこに当然墓地があって、その墓を区画整理のため撤去することになりました。母はその先生に相談しました「こちらに新たな墓を建てたいのですが、後の処置をどのようにしたらよいか教えて欲しい」と
先生は瞬時統一状態に入られ、その墓に祀られる御霊をすべていまからこちらに移す。その数は16柱であると仰いました。母は家に帰り、祖先の系図などを調べ上たところ、その数はまさしく16柱でありました。そのほかいろいろな奇跡を私どもだけでなく、会員の皆にみせられました。
僕も母に連れられ、毎年その先生の話を聞いておりました。聞くだけでなく、テープにもとって何巻も保管してあります。ビデオにも録画して会員に分けたこともありました。その会では当時私が一番の最年少であることもあって、雑用なども殆ど一手に請け負ったわけです。
その先生が昭和35年頃に、先程の伊東慈音さんの弟子である、衛藤慈声先生と繋がりをもたれ、幾人かと共同で未知日記の書籍全巻を自費出版されたわけです。当時如何ほどの資金をもって、どれほどの書籍を印刷されたか、先生に詳しく聞いておくべきでした。この衛藤慈声先生も高い霊能をもっておられたわけで、霊能力者同士が自然と交わりをもたれたわけだと思います。細かい経緯はわかりませんがその機縁でもって、私どもが今、未知日記を読ませていただくことになったわけです。今覚えていることは当時印刷を担当された古澤勘助さんはこの未知日記書の書を印刷するのにとても苦心したそうです。文語体であり、文字も細かく大変な作業であったそうです。先生は私によく云つたものです。
「あなた、未知日記ばかり読んで、決して頭でっかちの人間になつてはいけませんよ。何よりも大事なことは行法なのですよ、そして信仰をより深くすることですよ」といつも云っておられました。その会もいつしか潰えてしまい、いまはもうあとかたもありません。なにしろ母親と同じような老人達の集まりでしたから。先生の最期には私も東京に行き、お別れをいたしました。
この方は私の尊敬する最後の師となられた方です。
先生は未知日記の書と出会われて以後、人間の持つちっぽけな霊能などは本当につまらないものだと考え、自分の持つ霊能をすべて封印されました。本来、あの書はキリスト、釈迦、或いは古来からの聖賢と呼ばれる人々が読んでこそ初めて真に理解される書であると考えます。でも私たち凡愚が読むことによっても、それぞれの魂の浄化に役立つことができます。
どうかみなさんも読み続けていってください。
あの文語体は初め慣れるまではちょつと厄介で難渋しそうだと思いますが、慣れてくると次第にとけ込んでいけるはずです。また文意が不明の箇所があったとしても、いまは肉の身の私が理解できなくとも、理解している魂があると思ってどうか読み続けていってください。
坂井先生はこんなことも云っていた。
「いままで、みなさんが仰る奇跡的なるものは、人通力の一種なのです。でも 私が未知日記という尊い御本に接してからは、もうバカらしくなつてそんなちっぽけな奇跡を行うことは止めました。私もこれから頑張るから、皆さんも頑張ってね」と
以上が私と未知日記との関係です。

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