未知日記霊話集千三百六十回 大霊界 この気圧の言葉の場合にはこの教へを現はす。又この気圧の言葉には何々の意味を含むと云ふが如き理解力を有するに至らば、天変地異を知る事は容易なるべし。是を無言詞感応と云ふなり。天変地異を知るには無言詞を正しく見聞する力を要す。是を知るには有言詞に囚はれ居りては見聞すること難し  教主寛大講義


未知日記講義第一二巻  大霊界    巻の壱                          NO 43
有言詞感応と無言詞感応の区別     その2
           教主寛大 講述



 汝等諸子は気圧の関係によって、肉体神経に様々の感じをあたへ来る事のあるを知るならん。されば気圧の関係より肉体の変調に対して如何なる回答をなすや。其には何等の術を知らざるが故に回答はなさざるならん。気圧の問に対して答ふる方法を知らず。唯黙してなすに任せ居るにてはあらざるか。気圧の問は無言詞なり。是に対して沈黙するも無言詞の答へなりと思ふや。もし騒音雑音が神経を苛立しむる如き問に対してはうるさしとか、やかましとか云へる有言詞の答へを与へ居るならん。然るに気圧関係に対しての答へは、なさずしてせらるるがままに任せ居るは、無言詞の問を察知する力あらざるが故なり。無言詞の問とは先づ斯る問の言葉なりと思ひて、ここに少しく工夫し見よ。この気圧の言葉の場合にはこの教へを現はす。又この気圧の言葉には何々の意味を含むと云ふが如き理解力を有するに至らば、天変地異を知る事は容易なるべし。是を無言詞感応と云ふなり。天変地異を知るには無言詞を正しく見聞する力を要す。是を知るには有言詞に囚はれ居りては見聞すること難し。
 従来述べ来りたる天眼通とか地眼通とか語りしは即ち是なり。無言詞の声を聞きて是を悟るにあらざれば、天眼地眼の通力は得られざるなり。故に無言詞を見る眼、無言詞を聞く耳に、化せしめざるべからず。肉体にのみ囚はれて有言詞を主眼となし居りては、到底望みを達すること難し。我等かく語らば理屈は然あるかは知らねど、事実斯る事のなし得べけんやと汝等諸子は思ふならん。それは肉体本意に囚はれ居る汝等諸子には、然思ふは当然にして無理ならぬことなり。されど我等はなし得ざる不可能の事柄を、諸子に語り居るにはあらざるなり。方向転換して我等の説に耳を傾け、眼をむくれば、必ず無言詞の声は伝はると承知せよ。無言詞なるが故に、耳にも通じ、眼にも通ずるなり。眼にも通じ、耳にも通ずる以上、もし肉体に感応するならば、全身悉くにも通ずる道理あるなり。見ると云ふも無言詞なり。感ずると云ふも無言詞なり。無言詞の範囲はきはめて広し。肉眼肉耳肉体神経等は、その範囲せまきが故に限度あり。されど魂のすべてに通ずるものは限度なきが故に、その範囲も亦限度なし。有言詞感応には限度を有す。無言詞感応には限度を有せざる理は、是等の説明によりても解することを得るならん。空論として聞きのがすこと勿れ。我等は空論を以て諸子を籠絡するものにあらず。慈音は今一歩の修行によって、是等すべてを知り得る程度迄進み居るなり。この事によっても我等は空論を以て、諸子を欺くものにあらざる事を、知らしめんがために慈音をして行ぜしめ居るなり。慈音はすでにその半ば以上を体験して、大抵の事は知り尽くし居れど彼は是を公にせず、己一人に貯へ居るによって、諸子には未だ事実を知らしめざるにすぎざるなり。慈音は天変地異は知れど、語りてもしあやまてば空論になる事を恐れて語らざるのみなり。彼今一歩修行すれば必ずやその事実を示さん。

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