未知日記霊話集千三百五十七回 大霊界 すべては汝等衆人の作りたるものにてはあらざるか。そのものの為に怒りを催し悲しみを覚ゆるとき、是を無言詞界なる霊気にゆだね見よ。然かる時は霊気は無言詞階なるが故に、新しき考へを送りて、その怒りその悲しみを清浄なすならん。然とは思はざるや  教主寛大講義

未知日記講義第一二巻  大霊界    巻の壱                          NO 40
形を変へたる霊魂と無始終階との関係
その2     
          教主寛大 講述



 汝等衆人八大門に於て見聞したる如く、網の目の如きつながりが複雑なるに不拘、一つの魂がその中を自由にかけ来りて、他の魂を導きて何処かへ消え失せたる事を見聞したるならん。無言詞界に迄到達なし得たる魂なるが故、その順路をよく知るによって斯る事はなし得らるるなり。汝等衆人の肉体も無始終のそなはりより作られたるものがなるが故に、肉体も全宇宙も同一関係なりと教へたるも皆、是等に匹敵すと考ふれば、全宇宙も一個の肉体も同様の備りなれば、その備はりを他に化せしめず、全宇宙に順応してあやまたずば、無言詞界に至る経路は察せられる道理あらん。よって我等はその順路を諸子に語りて、迷はしめざるやう努力なし居るなり。
 我今汝等衆人の肉体にすべての具備(そなはり)ありと語りたるに対して、諸子は如何なる感じを抱くや。この言葉を聞きて暫時沈黙して考察するならん。是即ち汝等衆人の肉体にも無始終界無言詞階の具備(そなはり)あるによって、沈黙考案状態にうつして、その何処にか具備(そなはり)ある空より、実なる感じを引き出さんとなすならん。その空所こそ即ち無始終無言詞界に匹敵すと思ふも可ならん。肉体の中に無言詞界のあるによって、言詞は組織せられて現はるるなり。其れは肉体の中にあるか或は外にあるかを見きはむることを得るや。此具備あるによって物の明らめをなすことを得、又悟る事も得らるるなり。汝等諸子は是を知らず。唯肉体の生活にのみ囚はれ居るによって完全なる明らめ、完全なる悟りを得ることをなさざるなり。汝等諸子は他人にものを施したる時、相互笑顔にて贈り、笑顔にて受くるならん。されど其が欺かれて物資を奪はるるならば、腕力に訴へても互いに傷く如き振舞をなすならん。かかる事に対して是を推し進めて考へ見よ。快く施せしと、欺かれしとの相違にあらずや。前者は笑顔に、後者は傷く、そのわづかなる相違が無言詞の作用によって生ずる現象ならずや。心の満足、心の不平が、なせるわざなりとのみにて其以上の追求をなさざるが故に、明らめは中途に終る。是等を追求して推理力を伸ばすならば、実に馬鹿げたる事にて後に至って己が愚を笑ひにまぎらせて終(しまい)となすにてはあらざるか。是等の道理をよくよく考究し見よ。心とは何か。もし心を仮に己と見なし、種々なる感想を起さしむるところを無言詞界と思ひて研究し見よ。然る時は無言詞階の理は明らかとならん。心と霊との相違は何によって認識することを得るや。心の在所さへ知らずして、霊の如何なるかを知ること難からん。心と霊の区別すら判明せざる具備(そなはり)が、汝等の肉体を生活なさしめ居ると悟りなば、無始終界無言詞階は既に汝等をよび入れたるなりと悟りなば、肉体の有する間に天界の様は自づと認識すること難きにあらず。故に肉体を有する間に、この理を学しおきて迷はざる用心せよと奨むるものなり。肉体を有する間に往生なしおかば、肉体滅すとも今後は迷はざるべし。天界は遠からずと教へしは、是等の事あるによってなり。悟れば訳も無きことにて、悟らざるが故に迷ふは当然なるべし。
 汝等衆人は生活に必要なるものを作り、その作りたるものにのみ囚はれて、或は怒り或は悲しみ果ては生命をすら失ふに至る如き振舞をなして、日々を無意義におくり居るのみなるが故に、その方向にのみ心を労せしめ、霊に融和することを好まずして、空しき光陰をすぐし居るにてはあらざるかるか。斯る事にて何日かは安楽の世界に入る事を得んや。よく考へ見よ。すべては汝等衆人の作りたるものにてはあらざるか。そのものの為に怒りを催し悲しみを覚ゆるとき、是を無言詞界なる霊気にゆだね見よ。然かる時は霊気は無言詞階なるが故に、新しき考へを送りて、その怒りその悲しみを清浄なすならん。然とは思はざるや。怒り悲しみたる事柄を明らむる時、己が愚なりしことに気づきて笑ひを以て終らしむる結果となるも、是みな無言詞階よりの教へなるが故なり。

×

非ログインユーザーとして返信する