未知日記霊話集未知日記霊話集 第千二百九十六回 絶対界 巻の三 絶対界 第一講 不変性絶対と変化性絶対との関係 何処迄追究すとも言葉によって定めがたき絶対に迄至らしめずば、確定絶対とはならざるべし。もし絶対に於て確定なしたる絶対を得るならば、無始終絶対に迄至らしむるにあらざれば得ること難し。 故に無始終界こそ真の絶対界なりと語るの他、言葉にて云ひ現はすこと難からん テツシン貴尊講義

ヒロさんの転記したものをここに掲載しています

絶対界 第一講 不変性絶対と変化性絶対との関係
第一講 不変性絶対と変化性絶対との関係
                       テツシン貴尊講義



 諸子が現在用い居る易学の理論として、大極別れて両儀、別れて四象、別れて八卦、別れて何々と語り居れど、是逆に返せば大極に返る。其大極を絶対と思ふならん。是を我等に云はしむればその大極は、即ち変化絶対に他ならず。又日本の国史に独化の三神偶性八神以下等々語り居るも、是等を逆に返せば易学の大極に等し。又仏教者の弥陀三尊とか称し居るもすべて同様にて、弥陀と云ふも是又変化絶対を現はす。他の宗教に於てもみな是等に類す。 何とならば大極別れてとある以上、その大極は変化するによって別るると云ふ意味を現はし居るによって、是を変化性絶対と云ふなり。されば是に対して不変性絶対と云ふ言葉の現はるるは、即ち変化性絶対と云ふ言葉の対立にして、絶対に於ても不変性と変化性との相対となる。然して何処迄追究すとも言葉によって定めがたき絶対に迄至らしめずば、確定絶対とはならざるべし。もし絶対に於て確定なしたる絶対を得るならば、無始終絶対に迄至らしむるにあらざれば得ること難し。 故に無始終界こそ真の絶対界なりと語るの他、言葉にて云ひ現はすこと難からん。 果して斯るところを探り求むることを得るや。 もし其所のみ一定の場所にありとせんか、そは神の世界を措いて他にはあらじとのみ答ふるの他なかるべし。然して斯るところのあるならばその位置こそ、限度を有すと云ふ理論も成立するならん。ものごとを仔細に検討すれば人智にては到底認識すること難きは当然なるべし。 獣類にも筋肉の具備あり。人類の筋肉と大差なかるべし。然るに獣類には知慧を有せず。人類にのみ知慧ありとするならば、それは何によってそのはたらきをなさしむるや。 肉体あるが故に知慧はそなはるとの理に帰するものならば、獣類に於ても同様の具備ある筈なり。然るに人間と獣類との知慧の相違は非常に異なる点少なからずあるならん。 学者は是等に対して人間には魂の有するが故なりと。 然らば獣類には魂の備はりなきが故に魂なしとして、人間と比較し見よ。人間の筋肉のはたらきによって種々様々の行動をなす。 獣類も然り。 その筋肉の動作は何によってはたらかされ居るやと、仔細に追究して考へを深くする時、ここに至って又言葉にて云ひ現はし難き数々の説は現はるるならん。生きると云ふ力のあるは何故ぞ。植物も生きる力によって発育するならば、生と云ふ原理は、何処より来りしか等々の質問を重ねらるれば、答へに窮して知らずと云ふの他なかるべし。この知らずと云ふ言葉に迄すべてのものを深く研究して、仏教者はすべてを空なりと説きたるならん。仏教の一切空とはすべてを知らずと云ふ言葉に帰するの他なかるべし。 知らざる境地を空と云ふならん。 知れば空にはあらざるなり。 一切すべて計り知れざる境地を空と云ふならば、空の理論を究めずば空も空となる。その空を知るものは誰ぞ。 又その空を作りたるものは誰ぞと深く追究するならば、ここに又妙味しんしんとして尽きざるものあらん。 すべては教主の教へによつてこの解決を計るべし。

×

非ログインユーザーとして返信する