未知日記霊話集未知日記霊話集 第千二百九十三回 絶対界 第十章 霊気と霊気の交はりに就いて ここに一言注意することあり。 この十章に対して文字のあやまり或は書損等のあるところは改むることは苦しからず。されど文意を彼是批判して筆を加へて添削すること勿れ。是はかたく止めをく テツシン貴尊講義

ヒロさんの転記したものをここに掲載しています

絶対界
第十章
霊気と霊気の交はりに就いて
           テツシン貴尊講義


 されど是は方便にして帰するところは、自己の魂を発見する方便にすぎざるなり。信の力すぐるれば自己の魂が稔りを全うすることの理は、かくの如き関係となると知らば更に新らしき道を構じて、其によって自己の個性を発見せば、神を求め仏を願ふの要もなからん。 例へば我に信じらるる事柄に対して、他人は厭ひて信ぜざることのあるに対してもうなづくところあるならん。 小さき例にとりても我にはこの薬草が貢献ありと思ひて他に奨むるとも、其人には効果なき事の事実もあるならん。 其等に対して諸子は体質の相違なりと思ふならん。その体質の異なる如く信の方向にも同じ形のあることに注意せばうなづくところあるならん。さればこそ我はこの神を信じ彼はその神を厭ふ如き等々みな、その人々の個性の相違によるなり。故にミキョウも他の人の信仰を傷くること勿れとさとせしも、すべてこの理なるによってなり。外を求むるも帰するところは、内を求め居るに他ならず。是と反対に内を求むると思ふも、他を求め居る関係もあるなり。是は自他一如なるによつてなり。 他と思ふもすべては我なり。 自他一体の境地に至らばすべては、一に帰することは既に諸子も知り居るところならん。
斯く語らば諸子は思ふならん。 悪人は不善を喜ぶは是悪を信ずるによるかとの疑問なるべし。然り、然あるなり。すべて諸子の世界には人々によって定められたる約束の善悪あるによつて、ここに又種々様々の異なりたる範囲が拡められて枝葉をつくること多し。 悪人は悪を好むと云ふも魂の信あるが故なり。されどその魂の本質は善なり。 先にも語りし如く魂に相当する信の種子が、 二葉に芽を出したる時、善に属する方を育てず、悪に伸びる方向に信を育つるが故に、ここに善悪の区別あるなり。故に悪人は悪の方向に育ち行きて悪を好むなり。されどもし其が中途に至つてさとりて魂の信にかへれば、その悪の個性は消滅して善の方向に転換して、ここに初めて悪人が善人となる如き結果となり行くも、すべては個性の魂の信にかへりて、はじめて正しく化せらるると知らば可ならん。善人と云ひ悪人と云ふも斯くの如き性質を有するが故に、二葉は育ちて枝葉をつくるに至るなり。信と云ふも個性なるが故に、その栽培法をあやまてば善悪何れにも育てしむることを得るなり。悪を信ずれば悪となり、善を信ずれば善となる。 すべては信なり。 栽培するとは即ち指導者の責任にありと知るべし。 兎に角信の力は其人々の個性によって強弱あることは云ふ迄もなし。信ずる力を養ふを魂を磨くと云ふなり。
ここに又考ふべきことは信仰の力を強からしめんがための方法として種々様々の教へをなす。その事に対しての注意なり。個性の相違をよくよく見出して、そのものに対して適当の法を以て導くにあらざれば、信の力を強からしむること難し。厭ふものに対して強いて好まざるものを以て導くとも、望を達すること難きは云ふ迄もなし。ここに指導するものを択ばざるべからず。是を他を求むると云ふなり。他によつて自を育つると云ふもこの種に属す。彼我一体となる喜びこそ真の信となるなり。霊気と霊気の和すると云ふは、即ち縁なりと語りしも是なり。縁とは好めるものと好めるものの両者が和合するが故に縁となりてつながる。 是を縁の道と云ふなり。 この云ひまわしは不徹底なれど我にいささか思ふことあるによってかく婉曲なる言葉を用いて語りたるに他ならず。是等は後に諸子が合点する日は遠からずあるべし。 ここに一言注意することあり。 この十章に対して文字のあやまり或は書損等のあるところは改むることは苦しからず。されど文意を彼是批判して筆を加へて添削すること勿れ。是はかたく止めをく。

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