未知日記霊話集未知日記霊話集 第千二百九十二回 絶対界 第十章 霊気と霊気の交はりに就いて 実を捨てて空となすべきか。空を取り入れて実になすべきかの法を先づ考究せよ。 法は何れを択ぶも可なり。 諸子はなし易き法を択ぶべし。 所謂仏教に云ふ自力他力の法によって考究せば可ならん テツシン貴尊講義

ヒロさんの転記したものをここに掲載しています

絶対界
第十章
霊気と霊気の交はりに就いて
           テツシン貴尊講義


 霊気と霊気の化合は先づ諸子の世界にて譬喩をひくならば、空気の其として教ゆるの他なし。諸子はこれによって霊気の交はりが縁によってつながれあることに気づくならん。然して縁とは如何なるものかの理も朧気ながら解することを得るならんと思ふが如何? 決してこじつけの理論にはあらざるなり。理を非に曲ぐると云ひ、非を理に曲ぐると云ふはこじつけなれど、理を理によって語るは決してこじつけにはあらざるなり。よって我等はこじつけにあらずと断言す。 諸子は己が知慧を以て是等をこじつけなりとして考ふるならば、先づ如何にとも考へを廻らすべし。其は諸子の心なり。如何に考へ進むとも帰するところは此処に帰るの他なきが故なり。 空気が縁によって組織せられ居るとせば、霊気と霊気の縁の理は推して知ることを得ん。神を仏を霊気とし、人間を霊気として考ふる時は、すべては縁によってつながると云ふ事柄に対しても、其理は明らかに知らるる道理あらん。
神仏に姿あらば人間にも姿あり。姿を霊気にかへせば如何なる結果となるや。諸子は我に姿あり。されど神仏には姿なしと思ふが故に一体化すること難しと思ふならん。されば姿ある己を霊気にかへよ。然することによって神仏の霊気と一体化することはむづかしき事にはあらざるならん。されど是等の説は理に似て理にあらずと思ふならん。あるものをなしと思へとは是不自然の教へなるが故なり。ここに理論と実際との喰ひ違ひがありて、所謂云ふべくして行ひ難しの言葉となるなり。其は一方に実間あらば、一方に空間あるによってなり。即ち神と人との関係は斯くの如くなる隔りあるによって、神を見ることを得ざるなり。神は空間にして、人間は実間におかれある故なり。故に空実一体化せしめずば目的は達し難し。空を実になすべきか、或は実を空に運ぶかの方法を用いざるべからず。さればなしやすき方向にむくる事によって目的は達せられる道理あらん。実を捨てて空となすべきか。空を取り入れて実になすべきかの法を先づ考究せよ。 法は何れを択ぶも可なり。 諸子はなし易き法を択ぶべし。 所謂仏教に云ふ自力他力の法によって考究せば可ならん。
信仰と云ふことのあらはれはかくの如きものに対して、大なる力あらはるるによつてなり。信の種子を霊地に蒔けば、一方には信と又一方には不信との二葉に芽を出す故なり。 信と云ひ不信と云ふも、根に返せば種子は信なり。 霊地の力にて是等は二分せられ行くに他ならず。 諸子は唯信と云ふものの本体を知らざるが故に、信不信を彼是論議なしおれど、霊地にかへれば帰するところは信の姿に他ならざるなり。
是を要約すれば信とは、即ち魂の本質に他ならず。 故に信とは自己に有する魂のはたらきの現はれに帰すと云ふの他なからん。されば魂に知らせてその魂が厭ふならば、其は不善にして、己の本質に反する為厭ふなり。されど反対に好むと云ふは、魂に同化する喜びなるによつて、ここに好むと好まざるとの相違あるなり。此理より察すれば己に有する個性を発見せんとならば、魂の本質に立ち返へらしめてその好むものに対して、歩みを進めなば個性はのびて発育することは云ふ迄もなし。是即ち信によって得らると知らば、信仰とは他を求むるにあらずして自らを求むるに他ならず。されど外に対して何ものか目標を定めずば、個性を見ること難きが故に、仮に神を信ぜよと教へ居るなり。

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