未知日記霊話集未知日記霊話集 第千二百九十一回 絶対界 第十章 霊気と霊気の交はりに就いて 心眼霊眼にて見るならば、線ともなり面ともなり体ともなり居る事は是を知ること易からん。 大自然の縁とはかくの如き程度迄考へを廻らすにあらざれば認識すること難し。空気が大自然の姿なるによって、その自然より地球より草木に至る迄すべてはその縁によって作り出されたりとせば、縁のつながりは草木に迄及ぶと云ふ事の理は明らめらるる筈なり。 テツシン貴尊講義

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絶対界
第十章
霊気と霊気の交はりに就いて
           テツシン貴尊講義



 全宇宙の成立を枝葉に渡って考察せんとならば、如何に知慧ありとも如何に学問ありとも、到底計り知ることあたはず。されど是等と雖も人体の構造より考ふれば大同小異なるが故に、その大体の事柄の理を究め得ること難きにあらず。 全宇宙の組織も人体の組織も帰するところは同一の関係に置れたるが故なり。兎に角霊気と霊気の化合によつて種々様々のものが現出なし居ることは、智者も学者もいなみ難き事実なるによつてなり。 人体が種々様々の細胞組織によって現出したりとせば、その一個々々の細胞が霊気と霊気の化合により、作られたる事の理も推して知ることを得るならん。故にすべてを分解して始めの霊気に立ちかへらしむるならば、絶対界とは如何なる処かは是又察せられるならん。されど諸子の考ふる絶対界と事実に於ける絶対とは是又大なる相違あるなり。今も語りし如く白紙の上に一線を引く時、諸子はその線と紙とのつながりに対しての関係には眼をむくれど、其線の縁と云ふに対しては心止むる人は稀なり。唯線は点の運動なりとのみ考ふるにすぎざるならん。 点の運動とは即ち縁にしてつながり、其つながりこそ即ち縁なりとの考へを有せざるならん。点と点とのつながりが縁あるによって交はりを長くなし居るに他ならず。されば白紙と線の関係は唯紙の上に置あるにすぎずとの考へをなさずして、縁とは紙と線との交はりを有すとのみにて、帰するところは諸子の考への緑と云ふは、紙と線との関係にのみ重きを置き居るならん。 是を我等に云はしむれば紙と線の関係は自然の縁にあらず。余義なく結ばれたる緑にして其縁は一時的のものにすぎざる故なり。所謂不自然の緑にして自然のものにあらず。 線の緑こそ即ち自然の縁として結ばれたるものとして、自然と不自然の関係は先づ斯る処にも見らるる道理あるなり。されどこの事柄に対しても線の縁は末だ、大自然の縁にはあらざる関係もあるなり。自然を究めんとせばかくの如き複雑微妙なる関係あるが故に、諸子は唯一言に自然々々と口にし居れど、大自然の本体を正しく認識なすことは、容易の知慧にては計り知ること難からん。 諸子は空気は縁によって一体化なし居ることを考へしことありや。 縁あればこそ空気は一体化なし居るなり。是線にも点にも面にもあらざるべし。 体として考ふるも面として考ふも線として考ふるも、その区別を肉眼によって定むる事難からん。されど心眼霊眼にて見るならば、線ともなり面ともなり体ともなり居る事は是を知ること易からん。 大自然の縁とはかくの如き程度迄考へを廻らすにあらざれば認識すること難し。空気が大自然の姿なるによって、その自然より地球より草木に至る迄すべてはその縁によって作り出されたりとせば、縁のつながりは草木に迄及ぶと云ふ事の理は明らめらるる筈なり。

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